勉強と親と私と

小中学生時代

 もともと、勉強勉強と言う家庭ではなかった。もちろん天神天神とも言わない。どころか、学校の授業以上はやらなくていい(やらないべきである)主義だったのかとも思う。

 私が覚えている中で最初に勉強について親に話したのは、小学4年生の頃だった。

 「チャレンジやりたい」

 当時、成績はいい方の中で普通くらいではなかったかと思う。通信簿の◎も最大10個ちょいで、30個とか噂されている人もいたから、まあまあってとこだろう。授業の中で言われたことは授業の中で人に教えられるくらいには理解して、宿題以外の勉強はしなかった(というかする手段がなかった)。全く勉強に不自由はしていなかったけれど、なんか教科書以外に自分の理解を深める手段が欲しくなったのだ。

 「ええ、そんなんやんなくてええやん。できんわけじゃないんやろ?」

 親の反応はこんな感じだったと思う。いやそうだけどさ~、とごねたのかごねなかったのか。後に母が、今できてるんだから要らないですよね~と個人面談でこぼした時、ベテランの担任が「いえ、ぜひやらせてあげてください。」と強く言わなかったら、私は今この大学にいないかもしれない。

 小学校高学年くらいになると、私は割と頭がいい方なのではないか、という疑念が浮かんだ。しかし、周りには中学受験組がたくさんいた。社会の授業で私と白熱した議論(なのか?)を繰り広げていた、細くて白い男子は、塾では高2の勉強をしているらしかった。ミニバスの同期2人は、受験をすると言ってミニバスを辞めた(私は辞めるための言い訳じゃないのなんて思っていたけど)。受験しない子でも、私に英語の質問をしてきた。「Iの後に入るのってamだよね?」。私はローマ字しかしらない。LOVEの綴りを覚えようとして、英語とローマ字とはずいぶん勝手が違うらしいと困惑していた、そんな頃だった。頭がいいというのはあくまで小学校の内容を深く理解できているような気がしただけで、それを客観的に示してくれるデータも進度もなかったのだ。

 そんなわけで、私は、自分がどれくらいできるのか知りたくなった。小学校のテストなんて90とる人はざらにいて、頭のよさを測るには役不足だった。中学受験をしたらわかるのかなと思った(模試の存在を知るのはずっと後のことである)。でも両親が、中学受験なんて必要ないだか金がかかるだか話しているのを聞いて、ああなんか受けられないんだな~と思った記憶がある。受けるだけ受けて入らないのもいいのかな、とも考えたが、結局面倒くさくなったので言い出すことはなかった。

 母はよく、「お父さんは一応国立大出身だから頭悪くないはずなんよ~こんなんだけど。」と言っていた。どうもコクリツダイというのは頭がいいらしい。どういう仕組みか知らないが。あととても頭がいいんだろうと感じていた伯父が早稲田という大学出身らしかった。あのおじちゃんが入ったとこならすごい大学なんだなぁ、と漠然と思っていた。

 小学生時代、親に勉強を見られたことはほぼなくて、それが普通だった。たまに一ヶ月分のチャレンジを一日二日でこなしていると、部屋を覗いてきた父が「たあちゃん(仮称:私)、また机に向かっとるよ。誰の子かね。」と独りごちながら出て行くのだった。(それ以外の机に向かってる時間は本を読んでいたかDSをしていたか絵を描いていたかだろう)

 中学に入ってからはむしろ部活が週6か7であるため、チャレンジすらできなくなって解約した。部活から家に帰ってチョコパイ9個とご飯を食べ、10時には寝る。勉強時間は増えるどころか、授業内でしかしない。増えたのは体重くらいだった。さすがにテスト前は部活もなくて(県大会の時はあってブチ切れたけど)、そこそこ勉強した。いい方だけど、もっといい子はいた。友達が80点以上とれたらお小遣いもらえるの~と言っているのを聞いて、私も真似しようと思った。「今度のテスト、5科目450点以上だったら、ハーゲンダッツ買って」。断られた。470点をとった。うちは褒めてくれないんだな、と少しつまらなく思った。

 

高校受験

 小学生の頃から、「あんた頭いいならH高校に行きなさいよ~」と言われ、漠然とそこに行くもんだと思い込んでいた。そこは偏差値60台後半の県立高校で、チャリ通学圏内では一番頭のいいところだったと思う。しかしそこに入っていたらやっぱり私はこの大学にはいなかったんだろう。

 たまたま親の仕事の関係で引っ越すことになったのだ。中学校も県外の入試には不慣れなはずで、さすがに何も頼らずに受けるのは心許ないだろうということで、中3の春にして(気は乗らなかったけど)初めての塾に入ることになった。

 私が自分の、中学生全体における立ち位置というか、偏差値というかを知ったのはこれが初めてだった。自分に対する認識は、公立中の120人の学年の中で一桁に入るかな~どうかな~というくらいのもので、どのくらいの高校とか、どのくらいの偏差値とか、そんなことは知る由もない。言われるがまま塾のテストを受けたら、上のクラスに入れた。上のクラスの中にも三つの段階があって、最初は一番下。次の駿台模試で偏差値55以上をとったので、英語だけ一番上、とかだったか。自分が本当にそのクラスの求めるものに値するのかわからなくて、びくびくしていた記憶がある。

 塾はその頃住んでた県にも引っ越し先にもある大手で、橋渡しとしてちょうどよかった。先生がどの教科もめためたに怖くて、部活もしつつ宿題しつつ睡眠時間3~5時間の日々だった。展開の意味がよくわからなくて、泣きながら数百問解いていた覚えがある。一度塾に行きたくなさすぎて林に逃げ込んで帰ってきた私を、親は何も言わずに受け入れた。かなり心配していただろう。県をまたいで塾に通っていたので帰りが十一時ごろになることもあったが、母が迎えに来てくれていた。受験に受かるためとか、理解を深めるためとか、そんな目的論はなくなって、ただ勉強しなければいけないから勉強していた。勉強していれば、自分の義務を果たしているような気がした。

 すごくできるようになった気もしたし、本当は何もわかっていない気もした。早稲田や慶應の附属の過去問を解くようになって、初めて自分が、名前を聞いたことあるくらいの学校を狙えるくらいの実力なのだと知った。塾の先生は、都立でトップの高校を受けるよう勧めてきた。最終的な模試の結果は、その高校の志望者200人中6位以内だった。なんかよくわからないけど、なんか受かるんだろうな、と思った。

 

高校受験結果

 大手塾ではよくあるやつなのかもしれないが、成績上位の生徒の授業料を無料にしてくれる代わりに、広告に使いたい名門校(早慶やMARCHの付属校など)を受けるという誓約書を書かされた。それが普通だと言われて何も考えていなかったけど、7,8校の受験料は多分うちには重かっただろう。当時はそれを思いやるだけの感情も残っていなかった気がする。

 早稲田の附属にぽろぽろ落ちた。大学の学部と合わせて早稲田には7回落とされることになる。がっかりしたけど、これまでの努力ガァとかここに行きたかったァとかそんなことは考えず、ただ自分の無能力を残念に思った。

 母は落ちる度に、私以上にショックを受けているようだった。ある私立の…私が行くことになった高校の合格発表の日、母は怖くて掲示を見られなかった。受かったと伝えると、驚くほど泣いていた。

 都立。

 落ちた。意外ではなかった。

 はっきり言って、英語の半分も読めていた気がしない。理社は7割いってない。国語の小論書いてない。どうしたら受かると思ったのか。真っ白だった。私そもそもなんでここ受けたんだっけ。ここに入りたいと思ったんだっけ。なんかよくわからないまま、泣いたような泣かなかったような、悲しいような疲れたような、終わったんだな、とだけ感じていた。

 母はやっぱり、私よりずっと落ち込んでいた。なんでたあちゃん、あんなにがんばっとったんに。私はそう言われて、ただ申し訳なかった。私のしてきた努力なんていうのはどうでもよくて、ただ初めてされた期待に、応えられなかった。それが申し訳なかった。でも、進学することになった高校も十分すごいじゃない、と言ってくれた。私はそれだけで多分、よかったのだと思う。

 

高校入学後

 引っ越したあと、どうも家の経済状況が悪くなったらしい。

 母親に何度か、「お前が私立に入ったせいで」「都立に入るっていうから塾に入れたんだ」と責められることがあった。ただ使命として勉強していた私は、それで家が苦しくなるとか、そんなことつゆも考えていなかったのだ。話が違う。私立に受かったことを褒められたことでまあいっかと与えられていた自分への承認を、返上せざるを得なくなった。私は自分の不甲斐なさと申し訳なさから逃れられなくて、自己嫌悪に陥った。入ってしまったものはどうしようもないじゃないか。私が頑張っていたのだって、知ってるくせに。言い返すこともままならず、不仲な時期がしばらく続いた。

 たまに高校の他の子の話をした。テスト80点とれたら1万もらえる子がいてね、おかしいよね。みんな海外行ったことあるんだって。みんな塾行ってるんよ……。単に驚いたことを伝えたかっただけかもしれない。でも、言った後にいつも後悔していた。親が不甲斐なく思うのを、わかっていたはずなのだ。でも、私はただ、ただ塾に行かなくてもできていてすごいねって、言って欲しかっただけなのかもしれない。学校のテストもご褒美なんてなくたってまあまあとっているし、海外行ったことなくても英語できるんだよって、褒めてもらいたかっただけかもしれない。その気持ちは、この高校に進んだこと、進んだ自分を心から褒めて欲しかった、でも責められた経験と結びついて、ひどく屈折した言葉になった。心の中の、親に褒められたがっている幼い私を認められなくて、親を傷つけた。それが苦しかった。

 大学受験は、東大を受けなかった。模試の成績は(勉強してない割には)よくて、冠じゃないけど東大B判定くらいをとっていた。でも、高校受験のトラウマもなくはなかったし、浪人するお金も私立大に行くお金もないだろうし、その他色々の理由があって、たらたら勉強しつつ、確実に受かりそうな国立を選んだ。親には東大受けないの、と言われた。私も受けたかった。

 現役の大学受験では、第一志望の国立と慶應に受かった。親は慶應の入学金を払った後に、その学部の偏差値が83とか書いてある胡散臭い広告か何かを見て、やっぱり慶應に入った方がよかったんじゃないかと言ってきた。私としてはもうお金の面でトラブルになるのは嫌だったので、慶應に入る選択肢はなかった。

 そしてさらに、かくかくしかじかあり、大学2年生にして人生に悩んだ。親は私の悩みを知り、最初留学を勧めてきた。留学と言えば高校受験の時に、この高校留学できるらしいよ~と伝え、そんなお金ないと突っぱねられて以来、考えないようにしていたのだった。大学留学するなんて、数百万かかるんじゃないの。うちじゃ払えないでしょう。いいよ、なんとかローンで返すけん、たあのすきなとこに行き。ね、あんたにはその力があるんやけん。

 ただあまりにも情弱過ぎて、成績が足りるのか、本当に留学できるのかなどわからないことだらけで、推薦状を大学の先生に書いて貰うのも心苦しく(後にこの話をしたら、いくらでも書いたのに~と言われたけれど)、留学に比べるとお手軽な選択肢としてダメ元の東大受験を選んだ。2019年9月のことだった。

 まあなんとか受かって、今に至る。親は未だに、自分が東大生の親だなんて信じられんと言っている。

 

東大合格後

 親は今では私の母校を気に入っている。じゃあなぜ、あんな言葉を。私はああ言われてからずっと……。母は、謝ってきた。苦しかったのだと。経済的にも、精神的にも。私立に入るのは経済的にきつかったが、それ以上に、子供の初めての受験で、自分も落ちるかもしれないような受験はしたことがなくて、子供のあれだけ努力したことが報われないのが辛かった。なんで受かってくれなかったのかと、恨みたくなるほどに。母は、自分がどうすることもできない子供の受験を、ただ子供と塾の言葉を信じて成功するよう祈るしかなかった。努力が報われるのだと信じて、心配な気持ちを押し込めて、暗い顔で塾に向かう私の背中を送り出していたのだろう。私も私で、本当に受かるのか、いい方向に進むのか、確信が持てないまま、自分にできることをするしかなかった。今になってやっと、自分のことを許し、親のあの時の言葉を受け止められる気がする。

 

 最近、親は、特に弟を見ながら、もっとああしてやればよかったんかなぁとよく言うようになった。あんな何もしてないのに東大になんて入ってくれて、本当あんたはすごいよ。ありがとうね。と私に対しては言う。私はいつも照れくさくて、ん、とだけ答えてそっぽを向く。

 本棚を見て、ああ、と思う。埃を被ったディズニーの英語教材や小中学生用の教材がある。合わせるとかなりの価値があったのだろうが、古くさくて、子供一人でやるには重くて、結局あまり活用されなかった。それを買ったときの、これだけやっておけば大丈夫なはずらしいけんね、わかんないとこはCD聞いてね、と広告受け売りの文句で勧める母の口調を思い出す。わからないなりに、子供たちが困らないように、一生懸命だったんだ。