幸せについて

「幸せですか?義務ですよ」

 たしか初音ミクの曲にこんな歌詞があったのではないか。

 げに、幸せとは義務だ。

 幸せでありたいし、そうでなければならないと思う。なぜなら、自分が生きていることに意味を与えたいからだ。私が生まれ、多くの苦労を抱え、寿命を迎えるまで期待値にして八十年もこの世界で時間を潰さなくてはいけないことが、私にとってマイナスでないだけでなく何らかプラスにならないならば、今から考えるにあまりにも絶望的である。布団に寝、トイレ以外に起き上がることもなく、なるべく動かずに二十日を過ごす治験というものを昔聞いたが、それを報酬無しでやるようなもんだ。幸せは自分に対し、生きることを正当化するための根拠なのだ。

 幸せは生きる根拠になっていると同時に、生きる目的でもあるようだ。「幸せになりたい」と呟いたことのない大人がいるだろうか。いやいるのかもしれない。往々にしてこの言葉を言うのは幸せでない人だから、生まれてからずっと幸せだと思う人は言ったことがない、ないし思ったことがないかもしれない(私はそういう人間とは相容れそうにないが)。上で幸せは生きる根拠だと言ったが、何も不幸だったらすぐに死ぬわけではない。幸せになるという目的を掲げ、その希望を捨てないでいるうちは、やはり人は生きていられるものである。

 幸せとは、生きる根拠であり、生きる目標でもあり、いつも満たさなければならないと感じる圧力をかけてくる。

 

 そんなわけで、漠然と幸せでなくてはならないと感じている今日この頃。一種の強迫観念だと言ったら大袈裟だろうか。「幸」という字はもともと、枷をかたどった象形文字であるらしいが、現代日本においても「幸せ」に縛られているとは皮肉なものだ。

 

 思うに、幸せには二種類ある。感じる幸せと、見える幸せである。

 幸せは第一義的には前者であるはずだ。つまり、幸せだナァという感情を本来幸せと呼ぶ(トートロジー?)。

 のちに、幸せダナァとみんなが感じるはずの、ある一定の形ができる。「美味しいご飯にぽかぽかお風呂、あったかい布団で眠るんだろな」というのもその一つであろうし、もっと現代臭いのでいえば「女の幸せ」と言われるような人生のテンプレ、タワマン、世田谷、六本木、外車、ヴィトンブルガリグッチエルメスティファニープラダシャネルカルティエ…といった特定の語で想起されるような金銭的豊かさ、それと結びつきの深い地位や名声、たまに学歴など。

 感覚の中にあるだけでは、幸せは絶対的なものだ。しかし、他者を見聞きせざるを得ない状況において、他者の幸せは図々しくも私の幸せの尺度になろうとする。感覚の中の幸せは本来比べられるはずがない。あなたが見ている赤色と私の見ている赤色が同じか、どちらがより鮮やかかわからないように、私とあなたでどちらの方がより幸せかは知りようがない。その壁を越えて幸せを測ろうとするとき、幸せはその人の感覚ではなく他者の目に見える次元に還元され、相対化される。

 素朴な味噌汁を飲み温かい布団で眠れることにこの上ない幸せを感じる人もいれば、タワマンの最上階で自分の不幸を嘆く人もいるだろうに、人は富める者をより幸せであると感じてしまう(もちろん富は選択肢をもたらし、幸せと感じる体験をしやすくなる面はあると思うが、”お金があること”がとりもなおさず幸せかといえばそうでもないだろう)。これがさらに問題なのは、味噌汁と布団があれば幸せだと思っている人も、より高級な生活があるのだと言われると、自分が相対的に不幸に思われてしまうことだ。

 傷心していた頃、Instagramを見るのがこの上ない苦行だった。恋人と旅行に行っている人、友達とみんなで遊びに行っている人、みんな私の持っていないものを持っていて、みんな私より幸せに見える。お前は不幸せだと突きつけられているような気持ちになるのだ。そして幸せでないのなら、私は生きてていいの?生きる意味あるの?何のために生きているの?

 その裏返しとして、人から幸せそうに見えることで、自分が幸せなのだと安心する人もいるだろう。自分には多くの友達がいる、美人なイケメンな恋人がいる、自分はこんなにイイ物を食べ、イイ場所に住み、イイ暮らしをしている、その金がある、社会的な地位がある、ね?幸せそうだと思ったでしょう?いいなと思ったでしょう?だから私は/俺は幸せだ。

 でもある日、なんか幸せじゃないなと思う。幸せに見えているのに幸せじゃないかもしれない……。幸せだと言われる状況を手に入れているのに幸せじゃない、とすればこれ以上何をすれば幸せかわからない。なんてことも、あるかもね。

 

 On ne voit bien qu'avec le cœur. L'essenciel est invisible pour les yeux. (ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない)

 ここで『星の王子さま』に出てくるキツネのこの台詞を持ってくるのはありふれすぎて芸がない気もするが、『星の王子さま』を子ども目線で読んでいたはずなのに、気づいたら自分もサンテグジュペリのいう"grandes personnes(大人)"になってしまっていたんだなァと改めて思う。「大事なものは目に見えない」ということを音では覚えているのに、その意味は忘れていた。

 (自分の、そして他者の)目に見えない幸せの感覚と、目に見える幸せのカタチでは、後者の方がより確実で、大事なように思えてしまう。なぜなら、前者をわかるのは自分だけであって、他者が認めてくれる後者よりも心許ないから。心で見るしかないものは、自分だけのものであって、子どもにとってはそれが特別で大切だったはずなのに、大人になるとそれが怖くなる。そのうち、心で見る方法も忘れてしまうのだ。何が幸せか、何が大切か。

 もちろん見える幸せが必ずしも幸せの感覚を伴わないわけではない。インスタで幸せそうに見える人の大部分は本当に幸せなんだと思う。しかし、自分の幸せを人に見せることに重きを置いたとき、徐々に、自分がどう感じるかではなく、どう見えるかを幸せの指標に置き換えていってしまうことはあるのだろう。

 

 人はないものねだりが趣味だと思う。だからこそここまで発展できたのだろう。でもそれは、今持てる幸せに対してしばしば自分を鈍感にする。

 幸せは自分の中のものであるべきだ。幸せを他者からの承認に見ようとしたとき、幸せは他者から見えるもの、自分の持つ金や、地位や、美人でイケメンな恋人や、食べ物なんかに乗り移って、私のもとから逃げ出してしまう。そして私自身も、私に帰属するそれらのものに幸せを探す「他者」に成り下がり、私のものであるはずの幸せから疎外されてしまう。

 コンビニで意外と美味しいプリンを見つけられたこと、帰り道が電灯や車のライトに照らされてなんか綺麗に見えたこと、勉強をしていて楽しいなぁと感じること、人の言葉の中に温かみを感じたこと、家族とたわいもない話をしてちょっと楽しかったこと、友達や恋人と公園で駄弁る時間がずっと続いて欲しい気がしたこと。人に言うまでもないことの中にも幸せはあって、まず自分がその幸せに気づいてあげること。目に見えないものは忘れやすいから、いつも気をつけておくこと。

 

 自分の幸せを「誰かの幸せ」と混同してしまうと、幸せの感覚に鈍感になるとともに、幸せが外から与えられた義務になる。その義務は満たされないと、本能に裏打ちされた他者への羨望や劣等感になる。その意味で義務である。しかし、他者からの賞賛羨望など空虚だ。自分がどのような人間であり、何を求め、どう生きるのかは自分で決めるしかない。私の「幸せ」を賞賛する誰も、私の内面的な幸せなど補償してくれやしない。逆に私は、いかに他の人々に「そんなに勉強して楽しいの」といぶかしげに笑われても、そこに見出している幸せは揺るがされない。その揺るがされない幸せたちの価値を忘れず、向き合っていられたら、私の人生は多分幸せなものだろうと思うのだ。