独歩

悲しい。悲しいときは文章にすることで昇華させてきたが、何を書くかも浮かばない。

自分が今何を考えて悲しいのか、わからないし、言語化しても人に見せられるようなものではない気がして、ほっぽっている。

結局のところ、こうしてひとりぼっちで寂しさに泣いているのが私の真の姿な気がする。人が好きで、人とわちゃわちゃして楽しむ、それは本当に一瞬の話で、それ以外の時間の私は陰気で人見知りで楽しかった時間を味がしなくなるまで何度も何度も思い出すだけの悲しい人間なのだ。そして、それでいい。人といるのが当たり前になってしまってはいけない。求めてはいけない。一人でちゃんと生きていかないと。私を一番よく知る友達にも、お前は特定の人間を作らずに生きていくべきだと言われた。人を頼りにしている私はろくでもないと知っているのだ。

人は、別に、いなきゃいないでいいのだ。そりゃ誰もいなければ寂しいけど、やっぱこいつでしょってやつがいなくたって、なんとなくその時々一緒に過ごしたりする人がいればそれで、時間ってものはすぎていく。ただ、ふと何かの拍子に、そういう、この人は私といようとしていてくれるかもしれない、ありのままの私を受け入れてくれるかも知れない、みたいな人をうっかり作ってしまうと、そういう隙を与えてしまうと、だんだんとそれが当たり前になってきて、人間が絶えず欲しくなる。依存だ。糖分でありカフェインでありニコチンであり薬物でありTwitterだ。

なぜ人間が欲しくなるのか。本質的には楽だからだろう。いい人間でなければならないと思い続けるのは疲れる。清く正しい人間でなければならないという呪いが、一人でいるときは常につきまとい、私はそれに従うか、従わずに罪悪感に襲われるかのどちらかである。ところが人といると、生の自分を見なくて済む。その人との関係では、その人に見せている自分しか自分ではなくなる。その人に自分が好かれているのなら、その人との関係に安住している限り、私は好かれるべき人間として生きていられる。ないしは、自分ではいい人間であるといえるのか判断しかねる自分を、人に対してさらけ出し、その肯定を得ることによって、自らの判断に代替させているのである。私はずるいからどこかで、否定されないと信じて、否定してこないだろう人を代替的判断者に選んでいるのだろう。しかし私が肯定の中にい続けるためには、常に肯定してくれる人と一緒にいなければならない。人との関係の外にほっぽり出された瞬間、私はその人の肯定からも追い出され、また様々な感情と意思と欲とが混濁した自分自身と向き合い、正しくないかもしれない自分であることの心細さに凍えなければならなくなる。人といるときは特に、その人の中に映る自分を整えるだけで、自分そのものの正しさは見なくなるから、関係性の外側に追い出された瞬間、人に映し見ていた自分とは全く異なる、醜悪な自分と対面させられ、自分という狭い空間の中に同席させられ閉じ込められる。これが耐えがたいのだ。他人の肯定に甘んじていたせいで、自分で自分を肯定する能力を退化させた私の目の前にいるのは、ただでさえ醜い、ずるくて汚くて卑しい自分であって、これを自分だと認めて肯定して生きていくなど、到底無理ではないかと思う。自己が分裂し、常に一方が一方を憎み責め立てる声を自分の内に聞き続ける。正気でいるのが難しい。どの自分をも、自分の醜さをも道連れにして、海の藻屑にでも成り果てれば、このような喧騒を世の中から消し去れるのではないかと、思い始める。寂しさと死にたさがいつも同時に来るのは、このようにしてなのだろう。

ああ、私が「優しい」のも、同じ話だ。私は人を否定しない。私は人を許す。私は人を受け入れる。それは、私が人にそれを求めているからだ。ないしは、もっと悲惨なことに、それを売り物にして、私への肯定を、好意を、忠誠を、支払わせている。相手の要求を叶えてあげた人間になることで、相手にとって特別な、大切にせざるを得ないような人間になることを潜在的に企図しているのである。自分そのもの、絶対的/客観的な自分が正しいものであることを諦めてでも、人に映る自分を身綺麗にする。この人に肯定されたいと思う人にはいくらでも「優しく」なるが、そう思わない人、思わなくなった人に凄まじく冷酷になれるのもそのせいだ。私は都合良く優しさを脱ぎ着しているだけだ。私の醜悪さはそこにある。優しいと思われがちな外面と、途方もなく利己的で計算高く貪欲で非情な内面が、一つの私として存在している。気持ち悪くなる。自分の内面を見たくない。他人の見る「優しい」私を私だと信じて生きていたい。そのためには、絶えず人といなくてはならないのだ。結局、人を自分の醜さを見ないための目隠しとして利用しているに過ぎないのかもしれない。吐き気がする。

人といない期間が長ければ、その間絶えず自己を責める声の応酬を聞いていなければならないが、だんだんと外面の良さが薄れていって、ないしは絶対的で客観的な自分そのものをいいものにしようという気が芽生えて、内面の醜さとのギャップが薄まる。そうするとなんとか、一人でも生きていけるような感触を覚えるようになる。それがいい。人に頼らないと生きていけないような自分はしょーもない。自分と他人を偽りながら善人ぶる自分は気持ち悪い。これでいいこれでいい。寂しさを作り出して人を探す口実にするな。共依存を愛と呼んで求めるな。強く生きようとする意志を放棄するな。きっとちゃんと生きていける。私はちゃんと生きていける。

なーんて言いながら、ちょうどいい人が見つかればまた、ごにゃごにゃ言い訳をしてとぷとぷ溺れていくんだろうなぁと思うと、やになっちゃうね、まったく。