上海蟹食べたあい

最近、くるりの「琥珀色の街、上海蟹の朝」を、Spotifyを開くごとに流して頭を琥珀色に染めている。嘘で、琥珀色のイメージはてんでついておらず、上海蟹食べたい あなたと食べたいよというフレーズだけが自分の欲望と同化して鳴り響いている。

最初に、自分の意思とは関係なく2回聴いた。2回ともカラオケで(それぞれ別の)男子が歌っていたのだけれど、1回目ふーん、おもしれー歌詞と思ったもののしばらく忘れていて、2回目にあの時のだ、という感動を伴って急に体に入り込んできた。多分どちらが欠けても今こう鬼リピすることはなかった。

じゃあ、異なる人間が2回偶然カラオケで歌ってくれるという条件が満たされると上の効果が発動するのか、といえばそういうわけでもなく、今の私の心に共鳴して良くも悪くも震わせてくれるからこうなっているにほかならないのである。

聴く度に最初快いな、と思う。曲調が明るすぎず暗すぎず、朝焼けや夕焼けの少し遠くて暗さと隣り合わせのあかりが目の奥に滲むような。楽しさに心の底からはっちゃけることも、悲しさにボロボロと真っ直ぐ泣くこともなんだかできなくなってしまった私には、このくらいがいいのだ。強い快よりも優しさが欲しい。でも馬鹿らしいと思ってしまわないよう甘すぎないのがいい。そんなわがままハートに答えてくれるちょうどよさ。この曲調に知らぬ間に吸い込まれて、気づけば2周目、3周目をしている。

聴いていくとだんだん、そうも言っていられなくなる。心地いいとかちょうどいいとか、そういう問題ではない。これは大問題なのだ。というのも、最初の心地良さはどこへやら、聴けば聴くほど苦しくなってくるのだ。心が。言いようのない感情がもくもくと湧いて胸の底に沈む。もくもく、もくもく、次第に私のちっぽけな胸を一杯にして、いてもたってもいられなくする。なんだ、なんなんだ、この気持ちは。

ああ、そうか、きっとこれは、憧れだ。憧れであり、自分にはもうずっと届かない気がする苦しさだ。愛だ。そういうタイプの愛だ。

歌詞の初めの方は、シティポップというジャンルのイメージやぽわぽわした音とは逆に、割と荒涼とした感じのする言葉が並んでいる(ちなみに私は全く音楽を語る言葉を持たない。もう十何年も前に、特に好きでもないエレクトーンの前で習ったスタッカートやスラーくらいしか覚えていない。なので、そこら辺の語彙の薄っぺらさや不正確さには目を瞑って欲しい)。硬さ、強さみたいなものを感じさせるラップなのだが、一番の後半になると少しづつ綻びが見える。義理堅いガタイのいいお兄さんたちが(北斗の拳よろしく)西部劇なんかで出てきそうな荒涼とした道をラップバトルをしながらどしどし歩いていると思えば、その心は実はみな弱っているという。しかもお前(私)と一緒でみな弱っているのだと。ぎゅっと引き寄せられる。そういうギャップは大好物だ。自分もある意味そういうところがあるからなのか、はたまたそういう強そうな人の心の隙に居場所を見つけるのが好きだからか。ガタイのいい、向う見ずの、甘え下手な、頼りがいある、強面の人間(大いに比喩を含む)が人影でふと下げた眉尻や、上の歯で押さえつけた唇や、意図せず潤ませた目なんかを見ると、無言でその心ごと抱きしめたくなる。強面でブイブイ言わせているラップ男が一気に、自分と似た、理解可能な、愛すべき存在に変わる。自分語りをしすぎである。あ、今更だがこの文章は曲の論評をしようというものではなく(音楽の品定めをする資格など一度も与えられたことがない)、感想半分妄想半分回想半分なので大いに自分語りも含む。解釈と呼べたものでは当然ないし、多分間違ったことの方が多いが、私の見た世界は私だけのもの。

それで何だっけ。そう、この時にはもうこの愛すべき男(たち)から私は離れられないでいる。可愛くて心配で仕方ない。や、誰だ。半分はこの街の義理堅いガタイのいい男たちのことだし、半分は語り手(歌い手)のことだし、半分は私が愛すべきと思ってきた男たちの総体である。そしてそんな愛すべき男に、「この街はとうに終わりが見えるけど俺は君の味方だ」なんて言われてしまうのだ。無口で無骨で口下手な彼らが、こんなことを言うのだ。好きだ、とか、愛してる、とか、そういうんじゃなくて、味方なのだ。味方という言葉のどこまでも続く味わい深さに陶酔したい気がする。好きや愛してるみたいに相手と向き合うような気持ちではなく、一緒に同じ方を向いてぼーっとしていてくれるような、そういう愛情。恋愛は、どこか闘いのような感じがする。好き同士でもない限り、いやそうであっても、ゼロサム的にいつも本来的に利害が対立して、絶えず闘っている。相手がちょっとでも自分の思い通りに動くように、好きだよなんて言葉をチラつかせてみたり出し惜しんだり、利用できるくらいに思い上がらせて要らなくなったらつれなくしたり。疲れる。疲れてしまう。相手の目に映る自分を見たくなくなる時もある。そんな悩める現代人の心に、ああ、「味方だ」という言葉はなんと優しく響くんだろう。この街はとうに終わりが見えるのに。どうせ終わってしまうこの街で味方になって優しくする利益なんてもうないのに。それでもこの人は、私に何かを求めない、ただ幸せを願ってくれるような存在であろうとしてくれてるのか。その、ある意味での無関心さ、消極的な愛のようなものが、強ばっていた体をほぐすような。傷つかないよう武装した心を労り撫でてくれるような。びゅーてぃふぉしてぃーびゅーてぃふぉしてぃー(しばし脳の休憩)。

この後のラップについてはちょっと難しくてわからない。うおーすげー韻だーって思いながら聴いてる。「ずっと泣いてた」うんうん。「君はプレデター」ん?急に捕食者にされてしまったがまあ、いいか。むしゃむしゃ。「決死の思いで起こしたクーデター」クーデターとはフランス語のcoup d'Etatだがカナに直す時本当はクー・デタと長母音にせず止めるのが自然であっt

もういいよそういうの。君はもうひとりじゃないから。言われたい。もういいんだよねこういうの。そう、何がそういうのなのかわからないけど、現状を否定するでもなく、ただなんとなく嫌気がさしているようなこちらの気持ちを汲み取ってくれて、その気持ちをむしろ肯定してくれているような。強情な私が無責任にもういいなんて言わないでよ!って言おうと口を開きかけたところで、君はもうひとりじゃないからとか言う、そういう、も〜〜〜。ひとりにしないから、じゃなくて、ひとりじゃないから、なんだよ。有無を言わさずにいるって押しが強いようでもあるけど、自分の存在をこちらに押し出さずに、ただ「味方」だから、私に何を求めるわけでもなく、私が何をするわけでなくても、ただある、ただひとりぼっちじゃないことだけを最低限保証してくれる、別にそれが自分だなんて言わないんだけど、そういう優しさに感じる。

なぜこういう優しさが沁みるのか。一方ではそれが今となっては珍しいからだが、他方では、それで満足できなくなってしまったのがやはり自分だったからだ。素朴で飾らない優しさでこちらへ伸ばされた手を、ここまでの人生のどこかで、要らないと手で払いのけてしまった。もっと目立つ、立派で強くて特別で、私を意味ある何かにしてくれそうな、そんな激しい表現の方をある時点で求めてしまった。そのために失ってしまった、ただただ暖かいだけの手を思い出して、自分の若さと愚かさを悔やんでいるのだ。どこかで何かを越えてしまって、もう元の世界には戻れないような、途方もない寂しさを伴いながら、あの手を自分の手にとることを何度も何度も夢に見る。

そして来たる、上海蟹食べたい。ここ中国だったんだ。そういえばイントロの最初のところ、中国語の話し声だったかもしれない。上海蟹が唐突すぎてそれ以前の全ての記憶が真っ白になり、脳内が蟹に染まる。上海蟹食べたい、あなたと食べたいよ。あなたと食べたいよの破壊力。何かを一緒に食べたいって思うのって、愛じゃないですか。上海蟹なのは、単に自分が食べたいからだろうか、美味しいからあなたに食べさせたいんだろうか、それとも一生懸命に殻から外しているあなたを微笑ましく眺めていたいからだろうか。いずれでもいい。食べるっていう行為は、自分と食べる対象さえいれば成り立つはずなのに、そこにわざわざ特定の誰かを求める。あなたと向き合うわけではなく、あなたとともに蟹に立ち向かう。「俺は君の味方だ」って、言ってたね。きっと、こぼしそうになったら何も言わずに手を添えてくれるんだろうな。上手に食べなよ、こぼしてもいいからさ。この一行矛盾にとれるフレーズの味わい深さ。なんだろう、上手に食べる挑戦へ背中を押して、見守って、失敗してもこぼれたのを掬って、失敗した私も受け止めてくれるんだろうなって。優しさだし、愛だ。うう。愛だ……

そういえばどうしてbeautiful cityなんだろう。YouTubeのコメント欄を見ると、琥珀色なのは黄砂のせいらしい。黄砂が舞う街、それでも美しいのは、君との思い出に溢れているからだろうか。人の感覚って思いの外自分の中にあるものに影響されているから、乾いた砂漠の砂が舞って黄色くなったような街でも愛すべきものがあれば「琥珀」にさえ見えちゃうんだね。一緒に上海蟹を食べたのかな。『夜と霧』で、生きているかどうかもわからない妻を思い浮かべ、対話し、自らを充たしたフランクルのことをさえ思い出す。愛すべき存在を心の中に宿すことは、幸福なことだ。それが収容所であっても、黄砂の只中であっても。

上手に食べても心ほろにがい。あなたと食べたいよ。上手に食べられても、美味しく食べられても、あなたがいない。寂しい。一緒に食べたいのに。美味しいねと言いたいし、美味しそうな顔が見たい。そうだ、人を愛している時は、楽しいこと、嬉しいこと、美味しいものを経験する度に、今度はあの人と、あの人にも、と思うのだ。一緒にいない時にさえ人が心を掠めること。それが愛なんじゃぁないか。苦しい。苦しいなぁ。そんなことがあった気がする。いやたしかにあった。幸福で、今となっては遠い。美味しいものを独りでむしゃむしゃしていられるのは、嬉しいことなのに、なんか寂しい。だからか、一人で外食を滅多にできない。

それでも、一人でも、上手に割って食べようとする。あなたがいなくても、ちゃんと生きていけるからと。一緒にはいなくても味方だから。そうやってあなたのいない長い長い夜を越えていくのだ。夜を越えた先に、上海蟹の朝が、あなたと上海蟹を食べる朝が来るのだろう。来るのだと信じて、今日を生きるのだ。私にも来て欲しいなあ。愛すべき誰かと上海蟹を食べる朝。