生きていていい感じがしない。

 生きていていい感じがしない。

 たまにこの感覚に溺れることがある。

 こういうときにTwitterを開くと沼だ。何も私に答えを与えてはくれないが、それでも私は探し続けてしまうからだ。

 だから仕方なく文章を書く。文章にするうちに、どうでもよくなっていたりするものだ。これは読ませる文章でないから、全く以て読ませる文章ではない。

 自分とは何かを考える。自分とは過去の集積である。卵子精子が受精し、その受精卵が一刻一刻成長した、その時間を、限りなく無に近かったはずの私の素に積み上げた、その総体が私である。そうであるとすれば、どのような過去を送ってきたかが私がどのような人間かを物語る。

 思うに、私は美しい生き方をしていない。私は自分のずるさや卑しさや醜さを、知っている。その時々、私は自分がそうであることを是とする。その時々の大義名分を掲げ、正当化し、偽り、私は汚い心を抱き、行動をする。今になってみると、その時の正当化までを含んだ全てが醜く、しかし自分が、その過去からできているということ、その過去から永遠に逃れられないことを悟り、愕然とする。

 取り返しのつかないことが嫌いだ。先の見えない曲がり角では必ず一時停止する。しかし私が一時停止すべきなのは、曲がり角だけだったろうか。どんな選択をするときも、どの瞬間も、私は、本当は、立ち止まるべきだったのだ。岐路で止まり、迷い、ビュリダンのロバとなって死ぬとしても、醜い心から選んだ誤った選択を自らの一部とするよりはよかったのかもしれない。

 恐ろしいことだ。誤った過去は今の私を遮断する。過去とは恐ろしいものだ。こちらから働きかけることはさせないが、それでいて私に今も未来ものしかかり続け、私であり続ける。

 私はこれ以上過去を生むことが怖くなる。それはつまり、今を生きることが怖いということだ。そうすると、目に見えるもの、聞こえるもの、感覚すべてが怖くなる。私が今を生きているということを教えてくるからだ。突然に、私はこの世から逃げ場を失う。

 いや。一つだけ、逃げ場がある。私が存在しない場所だ。私が存在しない場所、しない世界。私が存在しない場所には私はいないのだから、要は私を消すということだ。私というもの、恐らく私はそれを自我に帰しているが、それを消してしまえば、忌々しい過去ごと葬ることができる。私は突如として、急激に死にたくなる。私が死にたいと呻くのはだいたいこのプロセスによる。

 少し戻って、美しい生き方とはなんぞやといえば、おそらくそれを達した人はいないのではないかと思うのだ。私が嫌だと、恥だと、罪だと思う、そんな過去がない生き方が、そんな過去の混じらない私が、私の思うそれである。無理だというだろう。私のこれまでの人生すべて、行動も心中も、くまなく観察した人がいたとして、おそらく「普通だ」というだろう。美しいことも醜いこともあって、至極普通だと。私自身も、普通でいいなと思うときもある。ただ許せないときもあるのだ。それが今だ。

 いや、別に、いいな、と思えてきたので書くのをやめる。では。