ぼやき

 感情が自分の思い通りになることなどほとんどなく、私は振り回されてばかりいる。そういうときに私ができる唯一の抵抗は書くことだった。生きているのが辛いときには原稿用紙に思いついた言葉を書き殴る。一枚書いたくらいで、どうしようもなかった胸の締め付けは和らいで、自分の文章を読み返すと、ああ頑張って生きているな、などと思ったりする。

 さて、なんでかわからないがここ数ヶ月?数週間?気分の上下が激しい。それも、明確な理由が思い当たらないのがつらい。子どもの頃には気分などと侮っていたが、気分は世界を見るためのレンズであって、暗い色のサングラスを通せば真夏の昼間という現実すら哀愁を漂わせることができる。気分が暗いとき、嬉しい出来事はちっぽけで一時的で取るに足らないように受け取られ、悲しい出来事は心と共鳴し奥深くに染みこんでいく。

 原因として、強いて言えば、普段無意識に過去のことを―嬉しいことであれ悲しいことであれ―思い出していることがあるのではないか。私が昔からゆかしく思うテーマに生と死、及び未来と現在と過去がある。両者は深く結びついているのではないかと思う。過ぎ去った時間や出来事の戻らなさと死んだもののそれは似ている。何かが死ぬことはそれが過去になることである。

 別れというものは擬似的な死である。恋人が教えてくれた"To say goodbye is to die a little"という言葉を私は好んでいるが、人との別れは、げに一つの死である。なぜなら、人と出会い関係を築くとき、その二人の間には二人だけに見ることができる世界が構築され、人と別れることはその世界からの放逐を意味するからである。生きることのできる世界が一つなくなるのだ。私はそんな世界があったことを時々思い出すが、思い出すしかできない。その中にいる自分も、相手も死んだのだ。過去でしかあり得ない。

 年をとるということは、過去が、死んだ世界が増えるということだ。過去から疎外され続けるということだ。それがとてもつらい。苦しい。

 しかしああ、私は、そろそろ受け止めなくてはならないのかもしれない。生きていくということは失うことであると。それと同時に得ているものに目を向けるべきであるのだと。減点方式で考えるからつらいのだ。手に入れたと思ったものを落としなくし奪われ壊され、それでもなお保っているものをこそ大事にする。それだけなのだろう。それが多分、前を向くということなのだろう。

 私がこうも過去に溺れるのは、将来が上手く見えないからだろうか。十年二十年単位の先を見ようとすると、金持ちかとか家庭を持っているかとか職業は何かとかそんな味気ない、ありきたりな指標で縛られた自分しか見えてこない。この先数十年とあってもそんな枠の中にしか結局生きられないのなら、私は何のために生きているのかしら、と思う。高校の友達の、私三十歳で死ぬんだ、という言葉の含意に思いを馳せる。

 そうであるなら、将来など考えない方がいいのかもしれない。向こう見ずに、今やりたいことだけやって、偶然なりたいと思ったものにだけなるのがいいのかもしれない。将来のための勉強も貯金も捨てて、今やりたいこと……やりたいことってなんだろう。寿司食べたいしか思い浮かばない。

 大学生になるまで、ずっと将来を楽しみに生きてきたのだ。幼稚園より小学校、小学校より中学校、中学校より高校が楽しくて、将来のビジョンなんて何一つ見えないけど、きっと大学生は楽しいし、社会人ももっともっと自由で楽しいのだと、素朴に信じてきてたのだ。多分今は人生のターニングポイントで、見方を変えなければならない。過去でも未来でもなく、現在の喜びをしっかりと味わわなくては。過去は触れない、未来はわからない、でも今あるものは誰も変えられない。それが窮屈でもあったけど、救いなんだろうな、わからないけど。