生きていていい感じがしない。

 生きていていい感じがしない。

 たまにこの感覚に溺れることがある。

 こういうときにTwitterを開くと沼だ。何も私に答えを与えてはくれないが、それでも私は探し続けてしまうからだ。

 だから仕方なく文章を書く。文章にするうちに、どうでもよくなっていたりするものだ。これは読ませる文章でないから、全く以て読ませる文章ではない。

 自分とは何かを考える。自分とは過去の集積である。卵子精子が受精し、その受精卵が一刻一刻成長した、その時間を、限りなく無に近かったはずの私の素に積み上げた、その総体が私である。そうであるとすれば、どのような過去を送ってきたかが私がどのような人間かを物語る。

 思うに、私は美しい生き方をしていない。私は自分のずるさや卑しさや醜さを、知っている。その時々、私は自分がそうであることを是とする。その時々の大義名分を掲げ、正当化し、偽り、私は汚い心を抱き、行動をする。今になってみると、その時の正当化までを含んだ全てが醜く、しかし自分が、その過去からできているということ、その過去から永遠に逃れられないことを悟り、愕然とする。

 取り返しのつかないことが嫌いだ。先の見えない曲がり角では必ず一時停止する。しかし私が一時停止すべきなのは、曲がり角だけだったろうか。どんな選択をするときも、どの瞬間も、私は、本当は、立ち止まるべきだったのだ。岐路で止まり、迷い、ビュリダンのロバとなって死ぬとしても、醜い心から選んだ誤った選択を自らの一部とするよりはよかったのかもしれない。

 恐ろしいことだ。誤った過去は今の私を遮断する。過去とは恐ろしいものだ。こちらから働きかけることはさせないが、それでいて私に今も未来ものしかかり続け、私であり続ける。

 私はこれ以上過去を生むことが怖くなる。それはつまり、今を生きることが怖いということだ。そうすると、目に見えるもの、聞こえるもの、感覚すべてが怖くなる。私が今を生きているということを教えてくるからだ。突然に、私はこの世から逃げ場を失う。

 いや。一つだけ、逃げ場がある。私が存在しない場所だ。私が存在しない場所、しない世界。私が存在しない場所には私はいないのだから、要は私を消すということだ。私というもの、恐らく私はそれを自我に帰しているが、それを消してしまえば、忌々しい過去ごと葬ることができる。私は突如として、急激に死にたくなる。私が死にたいと呻くのはだいたいこのプロセスによる。

 少し戻って、美しい生き方とはなんぞやといえば、おそらくそれを達した人はいないのではないかと思うのだ。私が嫌だと、恥だと、罪だと思う、そんな過去がない生き方が、そんな過去の混じらない私が、私の思うそれである。無理だというだろう。私のこれまでの人生すべて、行動も心中も、くまなく観察した人がいたとして、おそらく「普通だ」というだろう。美しいことも醜いこともあって、至極普通だと。私自身も、普通でいいなと思うときもある。ただ許せないときもあるのだ。それが今だ。

 いや、別に、いいな、と思えてきたので書くのをやめる。では。

 

 

幸せについて

「幸せですか?義務ですよ」

 たしか初音ミクの曲にこんな歌詞があったのではないか。

 げに、幸せとは義務だ。

 幸せでありたいし、そうでなければならないと思う。なぜなら、自分が生きていることに意味を与えたいからだ。私が生まれ、多くの苦労を抱え、寿命を迎えるまで期待値にして八十年もこの世界で時間を潰さなくてはいけないことが、私にとってマイナスでないだけでなく何らかプラスにならないならば、今から考えるにあまりにも絶望的である。布団に寝、トイレ以外に起き上がることもなく、なるべく動かずに二十日を過ごす治験というものを昔聞いたが、それを報酬無しでやるようなもんだ。幸せは自分に対し、生きることを正当化するための根拠なのだ。

 幸せは生きる根拠になっていると同時に、生きる目的でもあるようだ。「幸せになりたい」と呟いたことのない大人がいるだろうか。いやいるのかもしれない。往々にしてこの言葉を言うのは幸せでない人だから、生まれてからずっと幸せだと思う人は言ったことがない、ないし思ったことがないかもしれない(私はそういう人間とは相容れそうにないが)。上で幸せは生きる根拠だと言ったが、何も不幸だったらすぐに死ぬわけではない。幸せになるという目的を掲げ、その希望を捨てないでいるうちは、やはり人は生きていられるものである。

 幸せとは、生きる根拠であり、生きる目標でもあり、いつも満たさなければならないと感じる圧力をかけてくる。

 

 そんなわけで、漠然と幸せでなくてはならないと感じている今日この頃。一種の強迫観念だと言ったら大袈裟だろうか。「幸」という字はもともと、枷をかたどった象形文字であるらしいが、現代日本においても「幸せ」に縛られているとは皮肉なものだ。

 

 思うに、幸せには二種類ある。感じる幸せと、見える幸せである。

 幸せは第一義的には前者であるはずだ。つまり、幸せだナァという感情を本来幸せと呼ぶ(トートロジー?)。

 のちに、幸せダナァとみんなが感じるはずの、ある一定の形ができる。「美味しいご飯にぽかぽかお風呂、あったかい布団で眠るんだろな」というのもその一つであろうし、もっと現代臭いのでいえば「女の幸せ」と言われるような人生のテンプレ、タワマン、世田谷、六本木、外車、ヴィトンブルガリグッチエルメスティファニープラダシャネルカルティエ…といった特定の語で想起されるような金銭的豊かさ、それと結びつきの深い地位や名声、たまに学歴など。

 感覚の中にあるだけでは、幸せは絶対的なものだ。しかし、他者を見聞きせざるを得ない状況において、他者の幸せは図々しくも私の幸せの尺度になろうとする。感覚の中の幸せは本来比べられるはずがない。あなたが見ている赤色と私の見ている赤色が同じか、どちらがより鮮やかかわからないように、私とあなたでどちらの方がより幸せかは知りようがない。その壁を越えて幸せを測ろうとするとき、幸せはその人の感覚ではなく他者の目に見える次元に還元され、相対化される。

 素朴な味噌汁を飲み温かい布団で眠れることにこの上ない幸せを感じる人もいれば、タワマンの最上階で自分の不幸を嘆く人もいるだろうに、人は富める者をより幸せであると感じてしまう(もちろん富は選択肢をもたらし、幸せと感じる体験をしやすくなる面はあると思うが、”お金があること”がとりもなおさず幸せかといえばそうでもないだろう)。これがさらに問題なのは、味噌汁と布団があれば幸せだと思っている人も、より高級な生活があるのだと言われると、自分が相対的に不幸に思われてしまうことだ。

 傷心していた頃、Instagramを見るのがこの上ない苦行だった。恋人と旅行に行っている人、友達とみんなで遊びに行っている人、みんな私の持っていないものを持っていて、みんな私より幸せに見える。お前は不幸せだと突きつけられているような気持ちになるのだ。そして幸せでないのなら、私は生きてていいの?生きる意味あるの?何のために生きているの?

 その裏返しとして、人から幸せそうに見えることで、自分が幸せなのだと安心する人もいるだろう。自分には多くの友達がいる、美人なイケメンな恋人がいる、自分はこんなにイイ物を食べ、イイ場所に住み、イイ暮らしをしている、その金がある、社会的な地位がある、ね?幸せそうだと思ったでしょう?いいなと思ったでしょう?だから私は/俺は幸せだ。

 でもある日、なんか幸せじゃないなと思う。幸せに見えているのに幸せじゃないかもしれない……。幸せだと言われる状況を手に入れているのに幸せじゃない、とすればこれ以上何をすれば幸せかわからない。なんてことも、あるかもね。

 

 On ne voit bien qu'avec le cœur. L'essenciel est invisible pour les yeux. (ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない)

 ここで『星の王子さま』に出てくるキツネのこの台詞を持ってくるのはありふれすぎて芸がない気もするが、『星の王子さま』を子ども目線で読んでいたはずなのに、気づいたら自分もサンテグジュペリのいう"grandes personnes(大人)"になってしまっていたんだなァと改めて思う。「大事なものは目に見えない」ということを音では覚えているのに、その意味は忘れていた。

 (自分の、そして他者の)目に見えない幸せの感覚と、目に見える幸せのカタチでは、後者の方がより確実で、大事なように思えてしまう。なぜなら、前者をわかるのは自分だけであって、他者が認めてくれる後者よりも心許ないから。心で見るしかないものは、自分だけのものであって、子どもにとってはそれが特別で大切だったはずなのに、大人になるとそれが怖くなる。そのうち、心で見る方法も忘れてしまうのだ。何が幸せか、何が大切か。

 もちろん見える幸せが必ずしも幸せの感覚を伴わないわけではない。インスタで幸せそうに見える人の大部分は本当に幸せなんだと思う。しかし、自分の幸せを人に見せることに重きを置いたとき、徐々に、自分がどう感じるかではなく、どう見えるかを幸せの指標に置き換えていってしまうことはあるのだろう。

 

 人はないものねだりが趣味だと思う。だからこそここまで発展できたのだろう。でもそれは、今持てる幸せに対してしばしば自分を鈍感にする。

 幸せは自分の中のものであるべきだ。幸せを他者からの承認に見ようとしたとき、幸せは他者から見えるもの、自分の持つ金や、地位や、美人でイケメンな恋人や、食べ物なんかに乗り移って、私のもとから逃げ出してしまう。そして私自身も、私に帰属するそれらのものに幸せを探す「他者」に成り下がり、私のものであるはずの幸せから疎外されてしまう。

 コンビニで意外と美味しいプリンを見つけられたこと、帰り道が電灯や車のライトに照らされてなんか綺麗に見えたこと、勉強をしていて楽しいなぁと感じること、人の言葉の中に温かみを感じたこと、家族とたわいもない話をしてちょっと楽しかったこと、友達や恋人と公園で駄弁る時間がずっと続いて欲しい気がしたこと。人に言うまでもないことの中にも幸せはあって、まず自分がその幸せに気づいてあげること。目に見えないものは忘れやすいから、いつも気をつけておくこと。

 

 自分の幸せを「誰かの幸せ」と混同してしまうと、幸せの感覚に鈍感になるとともに、幸せが外から与えられた義務になる。その義務は満たされないと、本能に裏打ちされた他者への羨望や劣等感になる。その意味で義務である。しかし、他者からの賞賛羨望など空虚だ。自分がどのような人間であり、何を求め、どう生きるのかは自分で決めるしかない。私の「幸せ」を賞賛する誰も、私の内面的な幸せなど補償してくれやしない。逆に私は、いかに他の人々に「そんなに勉強して楽しいの」といぶかしげに笑われても、そこに見出している幸せは揺るがされない。その揺るがされない幸せたちの価値を忘れず、向き合っていられたら、私の人生は多分幸せなものだろうと思うのだ。

 

 

 

若者、孤独と諦め

 いかに孤独でなくなるかでなく、結局孤独であることをいかに忘れるかなのではないかと思う。

 私の人生経験は浅い。しかし浅いにしても、もう1/4ほどには来ていそうなものだ。もうすでに、一つの限界が見えた。出会ったものすべてを抱えて生きるのは無理なのだ。好きだったものですら過去に置いていかなくてはならないのだ。

 私がここに来て孤独を感じているのはたぶん、過去に愛おしいと思ったもの、わかっていると思った人を、全部今に連れてこられるのだと、どこかで信じていたからなのだ。それは現に所有するということなのかもしれないし、見える場所に置いておくということなのかもしれないし、連絡を取り合うということなのかもしれないし、いつでも連絡できると思っていることなのかもしれないし、いつか何か話そうと思っていつまでも置いておくことなのかもしれない。

 でもある日突然、それができないのだと気づくのだ。小中の帰り道、毎日暗くなるまで駄弁って帰った友達と、今でもSNSで繋がっているけど、会って話しもしたけど、もう何時間も話すことがないのだ。定番の恋愛トークは、あの頃喋っていた誰と誰がどうで~とか、あの先生が~とかの星の数ほどあったくだらない話よりつまらない。昔は何を話していたんだっけ。あの頃のその子からも、あの頃の私からも隔絶されて、私はもう二度とそちら側には帰れないんだなと思う。会うことで、失ったことに気づくのだ。

 私が連絡を絶っていたのがいけなかったのかもしれない。そうでなければ、そうでなければ私はもっと、彼らの世界を同じ位置から覗けたのかもしれない。高校に入ってから数年の間、高校出てから数年の間に、まあそこそこ色々あって、私の知らぬ間にみんなにもその色々があって、もうどう頑張っても、別の世界を生きているのだ。近況報告でお互いを見つめることはあっても、同じ場所から同じものを同じ目線で共有することはもうできない。会うことで距離を知って寂しくなるくらいなら、いっそ過去に閉じこめておこう、会わないでおこう。

 私は思いの外、高校以前の人間関係のあり方を気に入っていたのかもしれない。いや、そのあり方しか未だ知らないのかもしれない。現時点で付き合いのある人としか、繋がりを感じられない。というのも、少しだけ、ほんの少しだけでもその人の世界に私がいることがわかるから。

 本当は、しばらく関わりを断っていた人とも、もう一度回復できたらいいのかもしれない。でもやっぱり違うと感じる。頑張って空白の期間のお互いについて知っていったとしても、現時点で違う世界に生きているということは、今の私と今の彼らは違う過去の積み重ねで、違う地点にいる、理解はできても共感はできない者同士なんだろうと思う。思っているよりずっとずっと硬く大きな壁が立ち塞がっている気がしてくる。

 人生はこれの繰り返しなんだろうなぁ。猛烈な寂しさに襲われる。今好きなものも、見ている景色も、世界を共有している人も、少し先には持って行けないのかもしれない。もしくは、みんなみんな進んでいって、私だけ置いてけぼりなのかもしれない。私でさえ、私に置いて行かれてしまうのだ。時と時との隔絶、人と人との隔絶。何もなくしたくない。何もなくしたくない。

 でもたぶん、それは無理だから、ただ今だけを見つめることでしか孤独を忘れられない。今持っているものだけを見つめて、それらをなくすだろう未来も、過去になくしたものたちも、見ないふり。私は”すべてを”持っている。今も、これからも、ずっと。

 

 

勉強と親と私と

小中学生時代

 もともと、勉強勉強と言う家庭ではなかった。もちろん天神天神とも言わない。どころか、学校の授業以上はやらなくていい(やらないべきである)主義だったのかとも思う。

 私が覚えている中で最初に勉強について親に話したのは、小学4年生の頃だった。

 「チャレンジやりたい」

 当時、成績はいい方の中で普通くらいではなかったかと思う。通信簿の◎も最大10個ちょいで、30個とか噂されている人もいたから、まあまあってとこだろう。授業の中で言われたことは授業の中で人に教えられるくらいには理解して、宿題以外の勉強はしなかった(というかする手段がなかった)。全く勉強に不自由はしていなかったけれど、なんか教科書以外に自分の理解を深める手段が欲しくなったのだ。

 「ええ、そんなんやんなくてええやん。できんわけじゃないんやろ?」

 親の反応はこんな感じだったと思う。いやそうだけどさ~、とごねたのかごねなかったのか。後に母が、今できてるんだから要らないですよね~と個人面談でこぼした時、ベテランの担任が「いえ、ぜひやらせてあげてください。」と強く言わなかったら、私は今この大学にいないかもしれない。

 小学校高学年くらいになると、私は割と頭がいい方なのではないか、という疑念が浮かんだ。しかし、周りには中学受験組がたくさんいた。社会の授業で私と白熱した議論(なのか?)を繰り広げていた、細くて白い男子は、塾では高2の勉強をしているらしかった。ミニバスの同期2人は、受験をすると言ってミニバスを辞めた(私は辞めるための言い訳じゃないのなんて思っていたけど)。受験しない子でも、私に英語の質問をしてきた。「Iの後に入るのってamだよね?」。私はローマ字しかしらない。LOVEの綴りを覚えようとして、英語とローマ字とはずいぶん勝手が違うらしいと困惑していた、そんな頃だった。頭がいいというのはあくまで小学校の内容を深く理解できているような気がしただけで、それを客観的に示してくれるデータも進度もなかったのだ。

 そんなわけで、私は、自分がどれくらいできるのか知りたくなった。小学校のテストなんて90とる人はざらにいて、頭のよさを測るには役不足だった。中学受験をしたらわかるのかなと思った(模試の存在を知るのはずっと後のことである)。でも両親が、中学受験なんて必要ないだか金がかかるだか話しているのを聞いて、ああなんか受けられないんだな~と思った記憶がある。受けるだけ受けて入らないのもいいのかな、とも考えたが、結局面倒くさくなったので言い出すことはなかった。

 母はよく、「お父さんは一応国立大出身だから頭悪くないはずなんよ~こんなんだけど。」と言っていた。どうもコクリツダイというのは頭がいいらしい。どういう仕組みか知らないが。あととても頭がいいんだろうと感じていた伯父が早稲田という大学出身らしかった。あのおじちゃんが入ったとこならすごい大学なんだなぁ、と漠然と思っていた。

 小学生時代、親に勉強を見られたことはほぼなくて、それが普通だった。たまに一ヶ月分のチャレンジを一日二日でこなしていると、部屋を覗いてきた父が「たあちゃん(仮称:私)、また机に向かっとるよ。誰の子かね。」と独りごちながら出て行くのだった。(それ以外の机に向かってる時間は本を読んでいたかDSをしていたか絵を描いていたかだろう)

 中学に入ってからはむしろ部活が週6か7であるため、チャレンジすらできなくなって解約した。部活から家に帰ってチョコパイ9個とご飯を食べ、10時には寝る。勉強時間は増えるどころか、授業内でしかしない。増えたのは体重くらいだった。さすがにテスト前は部活もなくて(県大会の時はあってブチ切れたけど)、そこそこ勉強した。いい方だけど、もっといい子はいた。友達が80点以上とれたらお小遣いもらえるの~と言っているのを聞いて、私も真似しようと思った。「今度のテスト、5科目450点以上だったら、ハーゲンダッツ買って」。断られた。470点をとった。うちは褒めてくれないんだな、と少しつまらなく思った。

 

高校受験

 小学生の頃から、「あんた頭いいならH高校に行きなさいよ~」と言われ、漠然とそこに行くもんだと思い込んでいた。そこは偏差値60台後半の県立高校で、チャリ通学圏内では一番頭のいいところだったと思う。しかしそこに入っていたらやっぱり私はこの大学にはいなかったんだろう。

 たまたま親の仕事の関係で引っ越すことになったのだ。中学校も県外の入試には不慣れなはずで、さすがに何も頼らずに受けるのは心許ないだろうということで、中3の春にして(気は乗らなかったけど)初めての塾に入ることになった。

 私が自分の、中学生全体における立ち位置というか、偏差値というかを知ったのはこれが初めてだった。自分に対する認識は、公立中の120人の学年の中で一桁に入るかな~どうかな~というくらいのもので、どのくらいの高校とか、どのくらいの偏差値とか、そんなことは知る由もない。言われるがまま塾のテストを受けたら、上のクラスに入れた。上のクラスの中にも三つの段階があって、最初は一番下。次の駿台模試で偏差値55以上をとったので、英語だけ一番上、とかだったか。自分が本当にそのクラスの求めるものに値するのかわからなくて、びくびくしていた記憶がある。

 塾はその頃住んでた県にも引っ越し先にもある大手で、橋渡しとしてちょうどよかった。先生がどの教科もめためたに怖くて、部活もしつつ宿題しつつ睡眠時間3~5時間の日々だった。展開の意味がよくわからなくて、泣きながら数百問解いていた覚えがある。一度塾に行きたくなさすぎて林に逃げ込んで帰ってきた私を、親は何も言わずに受け入れた。かなり心配していただろう。県をまたいで塾に通っていたので帰りが十一時ごろになることもあったが、母が迎えに来てくれていた。受験に受かるためとか、理解を深めるためとか、そんな目的論はなくなって、ただ勉強しなければいけないから勉強していた。勉強していれば、自分の義務を果たしているような気がした。

 すごくできるようになった気もしたし、本当は何もわかっていない気もした。早稲田や慶應の附属の過去問を解くようになって、初めて自分が、名前を聞いたことあるくらいの学校を狙えるくらいの実力なのだと知った。塾の先生は、都立でトップの高校を受けるよう勧めてきた。最終的な模試の結果は、その高校の志望者200人中6位以内だった。なんかよくわからないけど、なんか受かるんだろうな、と思った。

 

高校受験結果

 大手塾ではよくあるやつなのかもしれないが、成績上位の生徒の授業料を無料にしてくれる代わりに、広告に使いたい名門校(早慶やMARCHの付属校など)を受けるという誓約書を書かされた。それが普通だと言われて何も考えていなかったけど、7,8校の受験料は多分うちには重かっただろう。当時はそれを思いやるだけの感情も残っていなかった気がする。

 早稲田の附属にぽろぽろ落ちた。大学の学部と合わせて早稲田には7回落とされることになる。がっかりしたけど、これまでの努力ガァとかここに行きたかったァとかそんなことは考えず、ただ自分の無能力を残念に思った。

 母は落ちる度に、私以上にショックを受けているようだった。ある私立の…私が行くことになった高校の合格発表の日、母は怖くて掲示を見られなかった。受かったと伝えると、驚くほど泣いていた。

 都立。

 落ちた。意外ではなかった。

 はっきり言って、英語の半分も読めていた気がしない。理社は7割いってない。国語の小論書いてない。どうしたら受かると思ったのか。真っ白だった。私そもそもなんでここ受けたんだっけ。ここに入りたいと思ったんだっけ。なんかよくわからないまま、泣いたような泣かなかったような、悲しいような疲れたような、終わったんだな、とだけ感じていた。

 母はやっぱり、私よりずっと落ち込んでいた。なんでたあちゃん、あんなにがんばっとったんに。私はそう言われて、ただ申し訳なかった。私のしてきた努力なんていうのはどうでもよくて、ただ初めてされた期待に、応えられなかった。それが申し訳なかった。でも、進学することになった高校も十分すごいじゃない、と言ってくれた。私はそれだけで多分、よかったのだと思う。

 

高校入学後

 引っ越したあと、どうも家の経済状況が悪くなったらしい。

 母親に何度か、「お前が私立に入ったせいで」「都立に入るっていうから塾に入れたんだ」と責められることがあった。ただ使命として勉強していた私は、それで家が苦しくなるとか、そんなことつゆも考えていなかったのだ。話が違う。私立に受かったことを褒められたことでまあいっかと与えられていた自分への承認を、返上せざるを得なくなった。私は自分の不甲斐なさと申し訳なさから逃れられなくて、自己嫌悪に陥った。入ってしまったものはどうしようもないじゃないか。私が頑張っていたのだって、知ってるくせに。言い返すこともままならず、不仲な時期がしばらく続いた。

 たまに高校の他の子の話をした。テスト80点とれたら1万もらえる子がいてね、おかしいよね。みんな海外行ったことあるんだって。みんな塾行ってるんよ……。単に驚いたことを伝えたかっただけかもしれない。でも、言った後にいつも後悔していた。親が不甲斐なく思うのを、わかっていたはずなのだ。でも、私はただ、ただ塾に行かなくてもできていてすごいねって、言って欲しかっただけなのかもしれない。学校のテストもご褒美なんてなくたってまあまあとっているし、海外行ったことなくても英語できるんだよって、褒めてもらいたかっただけかもしれない。その気持ちは、この高校に進んだこと、進んだ自分を心から褒めて欲しかった、でも責められた経験と結びついて、ひどく屈折した言葉になった。心の中の、親に褒められたがっている幼い私を認められなくて、親を傷つけた。それが苦しかった。

 大学受験は、東大を受けなかった。模試の成績は(勉強してない割には)よくて、冠じゃないけど東大B判定くらいをとっていた。でも、高校受験のトラウマもなくはなかったし、浪人するお金も私立大に行くお金もないだろうし、その他色々の理由があって、たらたら勉強しつつ、確実に受かりそうな国立を選んだ。親には東大受けないの、と言われた。私も受けたかった。

 現役の大学受験では、第一志望の国立と慶應に受かった。親は慶應の入学金を払った後に、その学部の偏差値が83とか書いてある胡散臭い広告か何かを見て、やっぱり慶應に入った方がよかったんじゃないかと言ってきた。私としてはもうお金の面でトラブルになるのは嫌だったので、慶應に入る選択肢はなかった。

 そしてさらに、かくかくしかじかあり、大学2年生にして人生に悩んだ。親は私の悩みを知り、最初留学を勧めてきた。留学と言えば高校受験の時に、この高校留学できるらしいよ~と伝え、そんなお金ないと突っぱねられて以来、考えないようにしていたのだった。大学留学するなんて、数百万かかるんじゃないの。うちじゃ払えないでしょう。いいよ、なんとかローンで返すけん、たあのすきなとこに行き。ね、あんたにはその力があるんやけん。

 ただあまりにも情弱過ぎて、成績が足りるのか、本当に留学できるのかなどわからないことだらけで、推薦状を大学の先生に書いて貰うのも心苦しく(後にこの話をしたら、いくらでも書いたのに~と言われたけれど)、留学に比べるとお手軽な選択肢としてダメ元の東大受験を選んだ。2019年9月のことだった。

 まあなんとか受かって、今に至る。親は未だに、自分が東大生の親だなんて信じられんと言っている。

 

東大合格後

 親は今では私の母校を気に入っている。じゃあなぜ、あんな言葉を。私はああ言われてからずっと……。母は、謝ってきた。苦しかったのだと。経済的にも、精神的にも。私立に入るのは経済的にきつかったが、それ以上に、子供の初めての受験で、自分も落ちるかもしれないような受験はしたことがなくて、子供のあれだけ努力したことが報われないのが辛かった。なんで受かってくれなかったのかと、恨みたくなるほどに。母は、自分がどうすることもできない子供の受験を、ただ子供と塾の言葉を信じて成功するよう祈るしかなかった。努力が報われるのだと信じて、心配な気持ちを押し込めて、暗い顔で塾に向かう私の背中を送り出していたのだろう。私も私で、本当に受かるのか、いい方向に進むのか、確信が持てないまま、自分にできることをするしかなかった。今になってやっと、自分のことを許し、親のあの時の言葉を受け止められる気がする。

 

 最近、親は、特に弟を見ながら、もっとああしてやればよかったんかなぁとよく言うようになった。あんな何もしてないのに東大になんて入ってくれて、本当あんたはすごいよ。ありがとうね。と私に対しては言う。私はいつも照れくさくて、ん、とだけ答えてそっぽを向く。

 本棚を見て、ああ、と思う。埃を被ったディズニーの英語教材や小中学生用の教材がある。合わせるとかなりの価値があったのだろうが、古くさくて、子供一人でやるには重くて、結局あまり活用されなかった。それを買ったときの、これだけやっておけば大丈夫なはずらしいけんね、わかんないとこはCD聞いてね、と広告受け売りの文句で勧める母の口調を思い出す。わからないなりに、子供たちが困らないように、一生懸命だったんだ。

 

マージナル

 

 悲しいことがあって、一人夜の公園へ歩いた。夜の公園へ黙って出かけられるのは大人になったということじゃないかと思った。夜の公園に着いて、ブランコに乗る。久しぶりに漕ぐ。酔う。え? 漕ぐ。酔う。ええ。ブランコって酔うの。子供の頃、ブランコの繋がっている棒より高みを目指したのに、今は下の方でくすぶるだけ。だってどうせ、どこにもいけないから。どこにもいけないと知ったから。

 悲しいことがあって、お酒を飲んだ。お酒を飲めるのは、大人になったということだろう。お酒を飲んだ。なんでかって、悲しいから。お酒を飲むと、悲しいことを忘れられる……というわけでもないけれど。なんとなく、お酒を飲む。だってみんなそうしてるから。世界がほんのちょっぴり歪んで、何が辛いかわからなくなるから。何が辛いかわからなければ、何も考えずただ泣いていればいいから。赤ちゃんの頃と同じように。赤ちゃんと同じように泣いても、誰もあやしてくれないけれど。

 悲しいことがあって、悲しいことがあって、悲しいことがあって私は、私は勉強をした。本を読んだ。欲しいものを買った。食べたいものを食べた。会いたい人には会えなかった。せっかく迎えた二十歳の誕生日、会いたい人には会えなかった。家族に祝われているのに寂しかった。お酒を飲んでも、飲んでも、世界は私を大人にしてくれなかった。子供にしてくれなかった。前は持っていたのに、もう二度と戻らないものを知った。一番欲しかったものを、好きな人のおめでとうを、手に入れられなかった。私はきっと幸せになるのだと、子供の頃信じていた世界は崩れ去った。

 私は夜にしか公園へ行かない。私は悲しくても酒を飲むしかできない。ブランコでもう空には飛べない。ディズニーランドの端っこを知った。お酒の無力さを知った。自分の能力の端っこを知った。「ずっと一緒に」の無力さを知った。夜の短さを知った。

 でも、夜が終わることだけ知らなかった。

 

恋を乞い、愛に逢い

成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間の中にある能動的な力である。・・・・・・愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづける・・・・・・

               (E.フロム『愛するということ』より)

 

はじめに(?)

 私が恋愛を語るなど、おこがましいにも程がある。ナメクジに空の飛び方を教わりたい者がいるものか。

 最近どうしたことか、質問箱に恋愛系統の質問が投げつけられる。いや、嬉しいのだけれど、私が恋愛について言えることはどうすれば成功するかではなくて、どうすれば最低の事態を防げるか、、防げるはずか、ということでしかない。つまり、ナメクジなりに、どうしたら飛べなかったか、または飛ばないにしても、どうしたら塩をかけられないで生きていけるか、ということだけしか言えないのである。

 だからこれを書くのは、誰かに助言してしんぜようとか、そういう崇高な精神からではない。私がこの短い人生の中のわりかし大きな時間を費やして学んだ恋愛に関するほんのわずかなことを、私は私のためにメモしておくし、もし読んでくれる人がいたらそれについて一緒に話せたら嬉しい。その程度のもの。

 

前恋時代

 そもそも子供の頃と呼べるだろう時代、つまり小中学時代、私は恋愛なるものに無関心だった。というより軽蔑さえしていた。私の小中学校の男女仲が冷え冷えだったのもあるし、「小中学生で恋愛なんてませやがって」くらいに思っていた。手を繋ぎたいとか、ハグをしたいとか、ましてやキ、キスをしたいなんて、、意味わかんない////。実際私の身近にいたカップル(?)は、付き合ってから半年間話しすらせず最後はなぜか嫌いになって別れるみたいなあほらしい奇妙な交際しかしていなかった。多感な時期だものね。うんうん。

 そして、まともに好きな人すらできず中学生に。いや、小学生時代もいたのかもしれないけど、好きな人がいるということは、あの冷やかしを生業とする小学生たちの中において恐ろしい罪、罪でなくともおぞましい信仰を持つことだと感じていた。だからこそ、幼き自分の胸に小さな好きが芽生えても、無意識にそれを摘み取って、ないし水をやらずに枯らしてきたのだろう。このときに漠然と持っていた感覚は皮肉にもずっと後に再び、今度は現実として痛切に思い知ることになる。「人を好きになることは弱みを持つこと」。

 ともあれ、中学生時代のいつかに私にも好きな人ができてしまう。そこからの私の人生は割愛しましょう。時間の無駄なので。

 まあそういうわけで、そうなのだ。私は恋愛というものに敵意を向けるか、溺死するかどちらかで生きてきた。したがって、人の正しい愛し方が習得できているとは言いがたかったし、今でも完璧にわかってはいない。そもそも愛するってなあに?愛するって何なのー?教えておじいさん~~

 

戦後の反省

 大きな失敗の後、人は反省する。失敗から学ぶのだ。戦後の日本が(アメリカの圧力にしろ)戦力を持たないと誓ったように。私は然るべき大戦争と小戦争の後、(友達からの圧力助言もあり)学んだ。「私は恋愛をすべきでない」。東大で出会った人々にこの時代のこと、自分の恋愛遍歴(笑)を尋ねられたとき、決まって「あなたが成人したらお酒の席で話しましょう」と言うのはそう、ひとえに自分の失敗について真正面から話すのがこと難しいからである。

 第一、恋愛は生活における他の面が充実していれば必須の業でもないようである。これは東大に入ってから学んだ。いや、それまで私は恋人が消滅して後、ぽっかり空いた穴を埋めるべく目も虚ろにさまよう「瀕死の病人」であって、世界はいつも灰色に見えていた。それは恋人が欠けていたのではなくて、その他諸々の点で私には欠けているものだらけだったのである。東大に入ってからなんとかそれらを補えたのだと思う。だからこそ、恋人は別にいらないな~とつい最近…ひょんなことで恋人ができてしまうまで感じていた。

 そして、恋愛をしなくてもいいだけでなく、してはならない条件もある。これは質問箱にも実際に尋ねてきた友人にもしばしば答えていることだが、自分を一番大事にできない恋愛などする価値がないどころか損失にしかならない。すればするほどすり減る。しまいには何も残らない。暢気に紅茶を啜る元恋人相手に総力戦で敗れた私が言うのだから間違いない。しない方がよかった。戦争を通して私は自分を好きでなくなった。自信を失った。無力感を覚えた。生きる意味がよくわからなくなった……。これすらも経験だと言うことはできるし、自分にもそう言い聞かせている。しかし自らを損なうほどの経験は、避けるに越したことないなぁと感じる。

 恋愛したことあるだけいいじゃないか!と思う人がいるかもしれないが、私の犯した失敗はマイナスだ。経験になった以上に人生に実質的な不利益をもたらした。今でもあんな恋愛ならしない方がよかったと言い切れる。だから、いまだ恋愛をしたことがない、少ないからといって、焦らないでほしい。それでも大丈夫だ、なんて励ましをしたいわけではなく(実際大丈夫だと思うけど)、焦りは禁物なのだ。焦りや恐れは本当に大切なものを見えなくさせる。わかったね?その恋愛で自分を、相手を大事にできているか、常に問うように。

 

世間一般(?)の恋愛

 私は大きな失敗と小さな失敗を重ねて悟った。恋愛は「惚れた弱み」に尽きる。どれだけ相手に追いかけられるか、どれだけ自分が魅力的な存在であるように相手を偽るか。それが大事なのだと。

 彼の書いたnoteにも引用されていたが、私は世の中はあべこべだと思っている。愛されたいといいながら、振り向いてはくれない人にばかり思いを寄せて、自分を本当に大事にする人間には見向きもしない。映画「愛がなんだ」を見て、さらにそれを思い知らされ、当時恋人がいたにも関わらず泣いていた。あんまりだ、あんまりだと。そして自分の中にもその冷たさがあることを知っていた。自分なんかを求める者は、自分よりも劣っていようと。自分を向いていない者は、自分より前を歩いているのだろうと。どこが前であるのか、何が前であるのか知らない。だからこそ、そんな風に向かうべき方角を窺おうとする。

 今考えれば、そのように自分を好いていない人を好きになって振り向かせようとするのは、自信のないことの表れかしら、と思う。自分を好きでなかった、自分より前を歩いているのだろう人を振り向かせることによって、自分の価値を確認したい。また逆に、自分というちっぽけな人間を好きになる人など、と軽蔑する。また自信のない人は自分の価値観、自分の快いと感じるものを尊重できないから、他人の評価するような人を好きになったり、優れた恋人をいわゆるアクセサリーのように見せびらかしたりするのではないかと。まあこれはただの考察なので、実際にそうかはわからない。参考程度に。

 もう一つ、自信がないから起こることとして、過剰な束縛があると思う。前に付き合っていた人は異常に束縛が強かった。私は私で自信がなかったので、彼からの好意を手放すのが怖く、言うことを聞き続けていた。しかし彼もまた、自信のなさや劣等感、コンプレックスを抱えていたのだろう、と今になれば思う。他の男子を見たらそちらへなびいてしまうかもしれない、自分の方が能力が劣っていたら彼女(私)はもう自分を好きでなくなるかもしれない、自分の要求を聞いてくれないということは彼女にとって自分が大事じゃないんだ。こんな不安に裏打ちされた虚栄に私は振り回されていたし、彼自身も振り回されていたのであろう。そしてそういう自信のなさは、彼自身が人生において愛されていなかったことの現れなのかもしれない。内心が不安だからこそ、外側を縛ろうとする。これでは全体主義と一緒じゃあないか。多分そうだ。全体主義も極端に言えば一人の人間が相手を束縛するのと同様、力を失う・支持されなくなる怖れを抱き、それを力で振り払おうとしているのだ。全体主義が本当に国民を愛することや国民から愛されることはない、と言った方が、東大生のみなさんには伝わりやすいかもしれない。個人間の恋愛と違って客観的な事実として観察できる。

 世間的に言われている恋愛のテクニック―私もこれに踊らされてきた―は、このような人間の弱さを利用しているに過ぎないのではないかと思う。ギャップだとか、駆け引きだとか、惚れている様子を見せないだとか、そういう表面的で小手先の技術が必要なのは、相手自身を見ていない、ないし自分自身を見てもらっていないからだ。もしくは、自分に自信がないからこそ、自分のことしか見ていないのである。しかしあの類いのハウトゥー本やサイトが横行するのは(ここで私の検索履歴がバレる)、そういう人が大半を占めるからであろう。フロムはこの傾向を資本主義の市場原理と結びつけていたが、興味のある人は読んでみてほしい。

  私自身この世間の風潮というか、あべこべさ、理不尽さに諦めて身を任せようとしていたのだった。「惚れたら負け」。でも、本当にそうだろうか…?

 

恋愛のあらまほしき姿(仮)

 そもそも恋愛において勝利とは何を意味するのか。片想い期間であれば、目標は付き合うという点にあろう。しかし、付き合ってしまったら?何が最終的な勝利なのか。結婚?結婚まで行き着かなかった恋愛は失敗?それではあまりに恋する者ものが気の毒だ。明日突然敗北を言い渡される不安を常に抱えつつ最終的な勝利までの長い長い道のりをとぼとぼ辿るとは。あるいは結婚さえできれば成功なのか?結婚を悔いる者は古今東西ごまんといるのに。関係性の面で言えば、自分が好いているより相手に好かれて、相手を意のままに操ることだろうか。相手に依存され、その人にとって必要不可欠の存在になることだろうか。

 好きな相手から振られることは確かに敗北と呼んでしまえるかもしれない。しかし恋愛の本質は、関係性の如何ではなく、自分自身にとってどのように感じるものか、にあると思っているし、そうであってほしい。何年付き合ったかとか、俗に言う「どこまでいったか」とか、どのくらい会ったかとか、どのくらい電話をしたかとか、好きを何回言ったかとか、そういう問題じゃない。その期間私が自分を損なわず、自信を持ち、好きな人がいる幸福感を覚え、人を愛することによって新たなことを知り、人として成長できたのか。それができていて、それでも別れることになってしまったのなら、それは敗北とは呼ぶまい。愛別離苦は大きかれど、その間に得たものは自分の財産として別れたあとにも残るものなのだから。私が自分の過去を「敗北」と読んだのは、まさに失うばかりの恋愛だったからだ。

 冒頭に引用した文章、「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間の中にある能動的な力である。・・・・・・愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづける・・・・・・」とはまさにこのことを言っているのだと思った。恋愛のあるべき姿は、相手に対する支配でも服従でもない。自分のわがままを押しつけ、それに従う相手を見て自尊心を満たすことでも、相手のわがままを見境なく聞いてやり、少なくとも相手にとって自分は必要なのだと自分の存在意義を確かめることでもない。相手を傷つけるのを怖れ惰性で関係を継続させることでも、関係性の終焉を怖れ自分を殺して相手に従属することでもない。

 一人でも生きていける自立した者同士が、互いの世界を損なわずに、自らの意志で共に歩むこと。愛おしい存在を愛おしむことが快いために愛するということ。月並みな表現だが、そういうものなのではないかと思う。

 いや、この形を人に押しつけたいわけではない。健やかで長持ちする仕方だと私が思っているだけだ。実際前に恋人が心中を持ちかけてきた(!!??)。うそ。心中の予約を入れてきた。人生詰んだら、ライヘンバッハの滝に飛び込もうと。そういう破滅―穏やかでない終焉もいいのかもしれない、とそこはかとなく感じた。二人で一つのまま、永遠にあるを求むれば。…と、Twitterを検索してみたら私と付き合う前から彼片っ端から人を心中に誘っているんですがこれは………?

 

現代史

 これは蛇足。現代史なんて歴史に含めるなよとぶち切れていた若きウェルテルこと私の悩みを思い出す(は?)。まあお付き合いいただける方には読んでいただけたら嬉しい。私が実際どのように今恋人と向き合っているかをつらつら書いていく。

 私は上記の反省から、積極的に恋愛という沼に足を踏み入れるべきではないと感じた。そして仮にそういうことに関わるときが来るとしても、人を愛することより人から愛されること、大事にされることを重視しようと思った。相手が喜んでくれたらそれでいい、なんて、好かれたい欲とその欲の満たされない不満・不安に裏打ちされた偽善はさっさと捨ててしまおうと。

 まあ原則としてはそういう沼に足を踏み込むべからずの精神だったので、新たに出会った誰にも恋愛感情やそういう予感や期待なんかを持たずに過ごしていた。課題が忙しくてそれどこじゃねえし。たまに人と電話したりLINEしたりラーメンを食べに行ったり(?)して、それはそれで楽しかった。非リア芸的なものも時々していた。懐かしい。

 しかしそう、私には戦時中に失ったものが多くあって、依然愛に飢えてはいた。私の存在を認めてくれる人がほしい。自分が愛されるに足る人間であると教えてくれる人がほしい。しかし、もがけばもがくほど傷が増えるばかりだと悟ったので諦めたのだ。たまに昔を思い出しては「いっけな~い殺意殺意汗汗」とウイスキーを飲み干した。その頃のツイートを遡ると「(酒を飲み)まずいまずいまずい。でも人生よりはマシだな。」と言っている。面白い。

 別垢でたまにそういうことをこぼしていたからか、当時まだ恋人じゃない恋人はその頃から気にかけてくれていた。その当時は打ち明けて受け入れられる自信がなくて話せなかったけど、この人は本当に大事に思っていてくれてたんだなぁと今振り返ってしみじみ嬉しく思う。

 告白されたとき、私は自分の中に彼に対する恋愛感情があるのか正直わからなかった。前の項で書いたような、ギャップや駆け引きやテクニックなど、彼は持ち合わせていないし持とうとしていない。ただまっすぐに、まっすぐに私に気持ちを伝えてきていた(あまりに世間の恋愛像と異なっているので、私はてっきりそういう意味で好かれているのではないのだと思っていた)。だから世間一般の価値観に踊らされていた私は(前述のように進んで沼に入るまいと決めていたのもあり)、恋愛という観点で彼のことを見ていなかったのだ。でも、彼と話している時間は何も考えず楽しくて、彼や私にいつか恋人ができて今みたいに喋れなくなったらとても寂しいだろうと感じた。し、彼は私のことがとてもとても好きなようだった。おかしな人だ。今と変わらず。でもだから、託してみた。

 彼も多分、私の思うあらまほしき恋愛像をほぼ共有していると思う。ギャップだとか駆け引きだとか、そういう表面上のものに私たちはどちらも振り回されたくないのだ。愛を与えるほど、自分も相手も幸せになるはず。そうだと信じて疑わない頑固さがいい。

 どうも私たちのじゃれ合いを好意的に見てくれる人は多いようで、とても嬉しい。人にどう思われてもいいとは言いつつ、できれば応援されていたい。欲張りなもので。一方で、「あんな調子で、別れたらどうなるんや…」と呆れている人もいるだろうと思うし、実際いるそう。それはそうだ。現在の幸せにかまけて未来の危険を顧みないとは。脳死すぎる。私はこれを正当化する論理をまだ知らない。ただ、今そうしたいからそうしている。まあ別れたらアカウントを消したりするのかね。知らんけど。

 あのように目立つ方法でじゃれ合うのに対して、退路を断って別れられないようにしている、という見方もできるかも知れない。私はそういうつもりはない。しばしば「ずっと~~」という言い回しを他のごまんといる恋人たちと同様私たちもするのだが、それは「言質とってやったぜ!これで逃げられないからな」(←余談ですが「言質」って「げんち」って読むの知ってました?「ことじち」だと思ってて恋人に馬鹿にされたのですが)という意味で言っているのではない。私は本当にずっと一緒にいたいと思っているし、いられると思っているから言っている。しかしこの関係は双方の不断の努力により維持されるべきなのであって、決して一緒にいるために一緒にいるべきだとは思わない(進次郎)。いつ何時も、常に「付き合い続ける」「付き合いをやめる」の二つの選択肢の中で、進んで前者を選び続け、気づいたら「ずっと」一緒にいたね、となりたい。E. ルナンの言う「日々の住民投票」ではないが。

 だからこそ、不満は伝えるようにしている。以前の私ができなかったことだ。嫌われるかもしれないという恐れで自分の気持ちを押しつぶすことは、自分のためでも相手のためでもないし、その程度の関係なら崩れてしまえばいい。幸い、相手は真摯に受け止めてくれて、私は心にもやもやをため込まずに済んでいる。逆でもそれができていると願っている。

 しかしこの精神のために、衝突が連発している時期もある。私の無神経さ、彼の繊細さがでこぼこになって摩擦を起こす。でもそれは、いつか摩耗されてなくなるべきでこぼこだと思う。個性がなくなるという意味でなく、意識しなくても相手を傷つけないほどに表面上の言動やなんかの粗が削れ、相手に合っていくはずだ。今そうした摩擦が起こるのはお互いに歩み寄ろうとしているから。そう信じて絶えず気持ちを言語化し、ぶつけ、受け入れてきた。現に最近は、そうした衝突の頻度が減ってきている。嬉しい。

 

 これもまたよく言うことだが、恋愛ないし相手に溺れてしまいたくはない。縛りたくもない。自分の生活や人間関係、そして相手のそれを尊重したい。たとえ別れたとしても、マイナスにならないような関係でありたい。それは別れる怖れがあるという意味ではなく、さっき言ったように、別れたくなくて付き合っているのではなく付き合いたいから付き合うことを選んでいるのだ、と信じたいからである。そして恋人がいて成績が悪い/友達がいないより恋人がいて成績も友達もある、の方が絶対的にプラスだから。

 前の項でも書いたような束縛の話に関しては、恋人とも考え方が一致していた。彼はよく、行動は縛れても心が冷めたら意味がない、だから行動も縛らない、と言う。そうなのだ。形としての交際を続けたいわけではなくて相手の心が自分を向いていてほしいだけだし、相手の行動を縛れば冷められることこそあれ、それによってより(本当の意味で)愛されることはない。私は行動をほとんど縛られていないし他の人たちとも接するが、そのせいで彼への愛が減ったりはしない、むしろ増えていくのだと実感した。

 そうそう、人を愛するって何、ってよく考えるがなかなか難しい。愛しているという時、私は相手に何をしているのか。愛されたいと言うとき、何を求めるのか。特別なプレゼント?表面的な快楽?恋人がいるというステータス?私なりに一つ考えてきたのは、「あなたが生きていてくれて、幸せでいてくれて嬉しい」という思い、である。これはフロムが『愛するということ』で紹介した母性愛のようなものだろう。無償の愛、無条件の愛。また、同著では愛について、こう語られている。

自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。……自分のなかに息づいているものを与えると言うことである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

 このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。……

 私はしばしば、面白いと思った恋人の言動をTwitterに載せている。いやまあ、くだらないと思われているかも知れないし、私もくだらないと思うことはあるけど、私はそういう恋人の培ってきたユーモアを表現されて、楽しく嬉しい気持ちになる。彼と付き合っているここ二ヶ月間漠然と楽しいなぁと感じているが、何が楽しいのかと考えてみると、多分何をしても楽しいのだ。LINEにしろ、電話にしろ、直接会って何かするにしろ、様々な仕方で彼という人が彼の持つ知識を、言葉を、感性を、思想を、表情を、気遣いを、私に表し与える。それが愛されているということならば、それと同時に私は愛し返してもいる。そういうところ、いやそれらを見せてくれる恋人自身を愛おしいと感じ、私のなかに息づいてるものをまた彼のなかにも与える。そういうものであるから、愛は限りのないものだ。愛すだけ、愛される。愛されるだけ、愛する。まただからこそ、縛られず他の人と接するほどに、私の内面の蓄えに新たな知見が加えられ、私が彼や他の人に与えられるものが増える。つまりより深く愛せるようになる。

 

 彼が彼のうちに蓄えているもの、そして与えてくれるものは何か。つまり、彼はどのように愛するのか。脇道に逸れるが、私は「好き」はデジタルからアナログへ徐々に移りゆくものだと思っている。例えば大雑把に「優しいところが好き」と言えたものが、接してさらにその人を知るうちに、それがどういうタイプの「優しさ」で、その優しさが彼の他のどのような特徴と結びついているのか、というようなより詳細なところまで解像度を上げて見えるようになり、結局どこが、と言葉に還元することのできない彼の連続的な総体を好きだと思うようになる。(かっこつけてデジタルとか解像度とか使ってしまったけど、情報は可(べし)です。お手柔らかに。)

 ここ二ヶ月付き合ってきた中で見つけたいいところはあまりにも多く、また上記のようにアナログなものへと変化してきているので、言語化して恣意的に一部を切り取ることは心苦しくもある。たとえば声が好きだ、と一口に言ってしまえば、そこから滲み出る優しさや温かさや知性、純粋さ、可愛さ、その他私が心地よいと感じている多くの、不可分の要素は捨象される。そのことを断った上で、彼の素敵さのほんの一部をご紹介したい。つまり惚気。

 彼と接した人なら多分わかるだろうが、彼は変人である。どう変人か。どうと言われると難しい。私と付き合うずっと前、文通を始めた頃、最初の手紙に「私は『原理主義者』なので・・・・・・」という文章があった。ほぼ初めて会話(文通)する相手に「私は原理主義者です」などという自己紹介をする者があるのか。「たさいさんはどうでしょうか。保守派ですか。それとも革新派ですか。」(※政治的な意味ではなく性格的な意味)なんて、最初の話題にするものか。彼を指して言う変人は悪い意味ではない。逆張りやひねくれなどではなく、ただ自分の信念をいつまでも曲げずにきたことからくる変さなのだ。原理主義だけに。その頑固さというか無垢さというかは、愛おしい(主観)。

 そして私は彼をとても尊敬している。彼は私が持っていたいと思うような資質を持っているのだ。それは、わかりやすい部分で言えば、教養や知性、それらを支えてきたのであろう好奇心や行動力である。彼の持つ知識や思考や言葉の海に投げ込まれると、私は自分の持つそれらのちっぽけさに気づいて縮こまる。そして自分の持つものに満足せず、何についても目を輝かせて知ろうとする好奇心や、好奇心の対象へすぐに手を伸ばす行動力にも敬服している。彼のそういう部分、持っている知識教養も、世界に対する姿勢も、私にとって新鮮で眩しい。彼はそれらを言葉や振る舞いで私に表現するし、さらに教えてもくれる。ここに、私が先の項で「恋愛のあらまほしき姿」としてあげたような要素が実現され、私は嬉しく思う。

 しかし本当に彼について尊敬しているのは、人との接し方、いわば愛し方である。私は優しいとよく言われるのだが(隙自語)、私の表面的で消極的な優しさ―例えばむやみに人を否定しないとかされたことを赦すとか―なんかとは格が違うなあと感じる。他に彼を知る人も指摘しているところだが、包容力とでも言うべきなのかも知れない。相手の悲しみ、苦しみ、痛みに徹底して寄り添い、相手を肯定する。私が彼にいわれのない怒りをぶつけたとしても、その怒りの裏にある私の悲しみを無言で抱き締め、撫で、受け入れるような、そういった包容力。そして配慮。車道側を歩いてくれたり、鞄を持ってくれたり、疲れていないか気にしてくれるだけではない。私の感情の機微に言葉や声色や表情の微妙な調子の違いで気づいて、悲しそうな時は気遣い、嬉しそうな時は一緒に喜んでくれる。自分がきちんと私のことを大事にできているのかいつも振り返り、私に確認してくれる。そうだから、私は彼といると、自分は愛されるべき、尊重されるべき人間なのだと無意識に感じる。私の放つ言葉も、見せる表情も、抱く感情も、彼はかわいい、愛おしいと言う。私は自分が少し好きになる。生きるのが嬉しくなる。

 彼にはこういう類いの優しさを持つ所以となっている繊細さ、ストイックさがあるのだということにも最近気づいた。そこはしばしば私のがさつさ、緩さと衝突してしばしば傷つけてしまう。対照的なのだ。私は彼の中に、自分がもっと、本当の意味で人に優しくなれる可能性を知り、それを体得したいと思う。私は人として成長するための指針を手にした。そして、彼のその繊細さやストイックさまで抱き締められるようになりたいと願う。

 あとはかわいい(脳死)。仕草とか表情とか言葉とか、いちいちかわいい。あーーーーかわいーーーーー。

 

おわりに

 このやけに長い作文、感想文、最後の方は壮大な惚気…をここまで読み進めてくれた方には感謝したい。え?ここで1万字以上も書くならレポートで書けよ?……後期は頑張ります。。。

 ここに書いたことはあくまで私の少ない経験から考え出した恋愛というものであって、みんなに当てはまるものではないかもしれない。しかしまあ、こんな考え方もあるのか、くらいに思ってくれたら嬉しい。私も小中学生の頃軽蔑していた恋バナというものを、この歳、じゅうk…二十才を超えてからしてみたくなったのだ。まあ恋バナとは一人でぶつくさ語るものではないだろうから、感想などもらえたら嬉しい限り(欲張り)。稚拙な文章に最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。

    再见ヾ( ̄▽ ̄)