恋を乞い、愛に逢い

成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間の中にある能動的な力である。・・・・・・愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづける・・・・・・

               (E.フロム『愛するということ』より)

 

はじめに(?)

 私が恋愛を語るなど、おこがましいにも程がある。ナメクジに空の飛び方を教わりたい者がいるものか。

 最近どうしたことか、質問箱に恋愛系統の質問が投げつけられる。いや、嬉しいのだけれど、私が恋愛について言えることはどうすれば成功するかではなくて、どうすれば最低の事態を防げるか、、防げるはずか、ということでしかない。つまり、ナメクジなりに、どうしたら飛べなかったか、または飛ばないにしても、どうしたら塩をかけられないで生きていけるか、ということだけしか言えないのである。

 だからこれを書くのは、誰かに助言してしんぜようとか、そういう崇高な精神からではない。私がこの短い人生の中のわりかし大きな時間を費やして学んだ恋愛に関するほんのわずかなことを、私は私のためにメモしておくし、もし読んでくれる人がいたらそれについて一緒に話せたら嬉しい。その程度のもの。

 

前恋時代

 そもそも子供の頃と呼べるだろう時代、つまり小中学時代、私は恋愛なるものに無関心だった。というより軽蔑さえしていた。私の小中学校の男女仲が冷え冷えだったのもあるし、「小中学生で恋愛なんてませやがって」くらいに思っていた。手を繋ぎたいとか、ハグをしたいとか、ましてやキ、キスをしたいなんて、、意味わかんない////。実際私の身近にいたカップル(?)は、付き合ってから半年間話しすらせず最後はなぜか嫌いになって別れるみたいなあほらしい奇妙な交際しかしていなかった。多感な時期だものね。うんうん。

 そして、まともに好きな人すらできず中学生に。いや、小学生時代もいたのかもしれないけど、好きな人がいるということは、あの冷やかしを生業とする小学生たちの中において恐ろしい罪、罪でなくともおぞましい信仰を持つことだと感じていた。だからこそ、幼き自分の胸に小さな好きが芽生えても、無意識にそれを摘み取って、ないし水をやらずに枯らしてきたのだろう。このときに漠然と持っていた感覚は皮肉にもずっと後に再び、今度は現実として痛切に思い知ることになる。「人を好きになることは弱みを持つこと」。

 ともあれ、中学生時代のいつかに私にも好きな人ができてしまう。そこからの私の人生は割愛しましょう。時間の無駄なので。

 まあそういうわけで、そうなのだ。私は恋愛というものに敵意を向けるか、溺死するかどちらかで生きてきた。したがって、人の正しい愛し方が習得できているとは言いがたかったし、今でも完璧にわかってはいない。そもそも愛するってなあに?愛するって何なのー?教えておじいさん~~

 

戦後の反省

 大きな失敗の後、人は反省する。失敗から学ぶのだ。戦後の日本が(アメリカの圧力にしろ)戦力を持たないと誓ったように。私は然るべき大戦争と小戦争の後、(友達からの圧力助言もあり)学んだ。「私は恋愛をすべきでない」。東大で出会った人々にこの時代のこと、自分の恋愛遍歴(笑)を尋ねられたとき、決まって「あなたが成人したらお酒の席で話しましょう」と言うのはそう、ひとえに自分の失敗について真正面から話すのがこと難しいからである。

 第一、恋愛は生活における他の面が充実していれば必須の業でもないようである。これは東大に入ってから学んだ。いや、それまで私は恋人が消滅して後、ぽっかり空いた穴を埋めるべく目も虚ろにさまよう「瀕死の病人」であって、世界はいつも灰色に見えていた。それは恋人が欠けていたのではなくて、その他諸々の点で私には欠けているものだらけだったのである。東大に入ってからなんとかそれらを補えたのだと思う。だからこそ、恋人は別にいらないな~とつい最近…ひょんなことで恋人ができてしまうまで感じていた。

 そして、恋愛をしなくてもいいだけでなく、してはならない条件もある。これは質問箱にも実際に尋ねてきた友人にもしばしば答えていることだが、自分を一番大事にできない恋愛などする価値がないどころか損失にしかならない。すればするほどすり減る。しまいには何も残らない。暢気に紅茶を啜る元恋人相手に総力戦で敗れた私が言うのだから間違いない。しない方がよかった。戦争を通して私は自分を好きでなくなった。自信を失った。無力感を覚えた。生きる意味がよくわからなくなった……。これすらも経験だと言うことはできるし、自分にもそう言い聞かせている。しかし自らを損なうほどの経験は、避けるに越したことないなぁと感じる。

 恋愛したことあるだけいいじゃないか!と思う人がいるかもしれないが、私の犯した失敗はマイナスだ。経験になった以上に人生に実質的な不利益をもたらした。今でもあんな恋愛ならしない方がよかったと言い切れる。だから、いまだ恋愛をしたことがない、少ないからといって、焦らないでほしい。それでも大丈夫だ、なんて励ましをしたいわけではなく(実際大丈夫だと思うけど)、焦りは禁物なのだ。焦りや恐れは本当に大切なものを見えなくさせる。わかったね?その恋愛で自分を、相手を大事にできているか、常に問うように。

 

世間一般(?)の恋愛

 私は大きな失敗と小さな失敗を重ねて悟った。恋愛は「惚れた弱み」に尽きる。どれだけ相手に追いかけられるか、どれだけ自分が魅力的な存在であるように相手を偽るか。それが大事なのだと。

 彼の書いたnoteにも引用されていたが、私は世の中はあべこべだと思っている。愛されたいといいながら、振り向いてはくれない人にばかり思いを寄せて、自分を本当に大事にする人間には見向きもしない。映画「愛がなんだ」を見て、さらにそれを思い知らされ、当時恋人がいたにも関わらず泣いていた。あんまりだ、あんまりだと。そして自分の中にもその冷たさがあることを知っていた。自分なんかを求める者は、自分よりも劣っていようと。自分を向いていない者は、自分より前を歩いているのだろうと。どこが前であるのか、何が前であるのか知らない。だからこそ、そんな風に向かうべき方角を窺おうとする。

 今考えれば、そのように自分を好いていない人を好きになって振り向かせようとするのは、自信のないことの表れかしら、と思う。自分を好きでなかった、自分より前を歩いているのだろう人を振り向かせることによって、自分の価値を確認したい。また逆に、自分というちっぽけな人間を好きになる人など、と軽蔑する。また自信のない人は自分の価値観、自分の快いと感じるものを尊重できないから、他人の評価するような人を好きになったり、優れた恋人をいわゆるアクセサリーのように見せびらかしたりするのではないかと。まあこれはただの考察なので、実際にそうかはわからない。参考程度に。

 もう一つ、自信がないから起こることとして、過剰な束縛があると思う。前に付き合っていた人は異常に束縛が強かった。私は私で自信がなかったので、彼からの好意を手放すのが怖く、言うことを聞き続けていた。しかし彼もまた、自信のなさや劣等感、コンプレックスを抱えていたのだろう、と今になれば思う。他の男子を見たらそちらへなびいてしまうかもしれない、自分の方が能力が劣っていたら彼女(私)はもう自分を好きでなくなるかもしれない、自分の要求を聞いてくれないということは彼女にとって自分が大事じゃないんだ。こんな不安に裏打ちされた虚栄に私は振り回されていたし、彼自身も振り回されていたのであろう。そしてそういう自信のなさは、彼自身が人生において愛されていなかったことの現れなのかもしれない。内心が不安だからこそ、外側を縛ろうとする。これでは全体主義と一緒じゃあないか。多分そうだ。全体主義も極端に言えば一人の人間が相手を束縛するのと同様、力を失う・支持されなくなる怖れを抱き、それを力で振り払おうとしているのだ。全体主義が本当に国民を愛することや国民から愛されることはない、と言った方が、東大生のみなさんには伝わりやすいかもしれない。個人間の恋愛と違って客観的な事実として観察できる。

 世間的に言われている恋愛のテクニック―私もこれに踊らされてきた―は、このような人間の弱さを利用しているに過ぎないのではないかと思う。ギャップだとか、駆け引きだとか、惚れている様子を見せないだとか、そういう表面的で小手先の技術が必要なのは、相手自身を見ていない、ないし自分自身を見てもらっていないからだ。もしくは、自分に自信がないからこそ、自分のことしか見ていないのである。しかしあの類いのハウトゥー本やサイトが横行するのは(ここで私の検索履歴がバレる)、そういう人が大半を占めるからであろう。フロムはこの傾向を資本主義の市場原理と結びつけていたが、興味のある人は読んでみてほしい。

  私自身この世間の風潮というか、あべこべさ、理不尽さに諦めて身を任せようとしていたのだった。「惚れたら負け」。でも、本当にそうだろうか…?

 

恋愛のあらまほしき姿(仮)

 そもそも恋愛において勝利とは何を意味するのか。片想い期間であれば、目標は付き合うという点にあろう。しかし、付き合ってしまったら?何が最終的な勝利なのか。結婚?結婚まで行き着かなかった恋愛は失敗?それではあまりに恋する者ものが気の毒だ。明日突然敗北を言い渡される不安を常に抱えつつ最終的な勝利までの長い長い道のりをとぼとぼ辿るとは。あるいは結婚さえできれば成功なのか?結婚を悔いる者は古今東西ごまんといるのに。関係性の面で言えば、自分が好いているより相手に好かれて、相手を意のままに操ることだろうか。相手に依存され、その人にとって必要不可欠の存在になることだろうか。

 好きな相手から振られることは確かに敗北と呼んでしまえるかもしれない。しかし恋愛の本質は、関係性の如何ではなく、自分自身にとってどのように感じるものか、にあると思っているし、そうであってほしい。何年付き合ったかとか、俗に言う「どこまでいったか」とか、どのくらい会ったかとか、どのくらい電話をしたかとか、好きを何回言ったかとか、そういう問題じゃない。その期間私が自分を損なわず、自信を持ち、好きな人がいる幸福感を覚え、人を愛することによって新たなことを知り、人として成長できたのか。それができていて、それでも別れることになってしまったのなら、それは敗北とは呼ぶまい。愛別離苦は大きかれど、その間に得たものは自分の財産として別れたあとにも残るものなのだから。私が自分の過去を「敗北」と読んだのは、まさに失うばかりの恋愛だったからだ。

 冒頭に引用した文章、「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間の中にある能動的な力である。・・・・・・愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづける・・・・・・」とはまさにこのことを言っているのだと思った。恋愛のあるべき姿は、相手に対する支配でも服従でもない。自分のわがままを押しつけ、それに従う相手を見て自尊心を満たすことでも、相手のわがままを見境なく聞いてやり、少なくとも相手にとって自分は必要なのだと自分の存在意義を確かめることでもない。相手を傷つけるのを怖れ惰性で関係を継続させることでも、関係性の終焉を怖れ自分を殺して相手に従属することでもない。

 一人でも生きていける自立した者同士が、互いの世界を損なわずに、自らの意志で共に歩むこと。愛おしい存在を愛おしむことが快いために愛するということ。月並みな表現だが、そういうものなのではないかと思う。

 いや、この形を人に押しつけたいわけではない。健やかで長持ちする仕方だと私が思っているだけだ。実際前に恋人が心中を持ちかけてきた(!!??)。うそ。心中の予約を入れてきた。人生詰んだら、ライヘンバッハの滝に飛び込もうと。そういう破滅―穏やかでない終焉もいいのかもしれない、とそこはかとなく感じた。二人で一つのまま、永遠にあるを求むれば。…と、Twitterを検索してみたら私と付き合う前から彼片っ端から人を心中に誘っているんですがこれは………?

 

現代史

 これは蛇足。現代史なんて歴史に含めるなよとぶち切れていた若きウェルテルこと私の悩みを思い出す(は?)。まあお付き合いいただける方には読んでいただけたら嬉しい。私が実際どのように今恋人と向き合っているかをつらつら書いていく。

 私は上記の反省から、積極的に恋愛という沼に足を踏み入れるべきではないと感じた。そして仮にそういうことに関わるときが来るとしても、人を愛することより人から愛されること、大事にされることを重視しようと思った。相手が喜んでくれたらそれでいい、なんて、好かれたい欲とその欲の満たされない不満・不安に裏打ちされた偽善はさっさと捨ててしまおうと。

 まあ原則としてはそういう沼に足を踏み込むべからずの精神だったので、新たに出会った誰にも恋愛感情やそういう予感や期待なんかを持たずに過ごしていた。課題が忙しくてそれどこじゃねえし。たまに人と電話したりLINEしたりラーメンを食べに行ったり(?)して、それはそれで楽しかった。非リア芸的なものも時々していた。懐かしい。

 しかしそう、私には戦時中に失ったものが多くあって、依然愛に飢えてはいた。私の存在を認めてくれる人がほしい。自分が愛されるに足る人間であると教えてくれる人がほしい。しかし、もがけばもがくほど傷が増えるばかりだと悟ったので諦めたのだ。たまに昔を思い出しては「いっけな~い殺意殺意汗汗」とウイスキーを飲み干した。その頃のツイートを遡ると「(酒を飲み)まずいまずいまずい。でも人生よりはマシだな。」と言っている。面白い。

 別垢でたまにそういうことをこぼしていたからか、当時まだ恋人じゃない恋人はその頃から気にかけてくれていた。その当時は打ち明けて受け入れられる自信がなくて話せなかったけど、この人は本当に大事に思っていてくれてたんだなぁと今振り返ってしみじみ嬉しく思う。

 告白されたとき、私は自分の中に彼に対する恋愛感情があるのか正直わからなかった。前の項で書いたような、ギャップや駆け引きやテクニックなど、彼は持ち合わせていないし持とうとしていない。ただまっすぐに、まっすぐに私に気持ちを伝えてきていた(あまりに世間の恋愛像と異なっているので、私はてっきりそういう意味で好かれているのではないのだと思っていた)。だから世間一般の価値観に踊らされていた私は(前述のように進んで沼に入るまいと決めていたのもあり)、恋愛という観点で彼のことを見ていなかったのだ。でも、彼と話している時間は何も考えず楽しくて、彼や私にいつか恋人ができて今みたいに喋れなくなったらとても寂しいだろうと感じた。し、彼は私のことがとてもとても好きなようだった。おかしな人だ。今と変わらず。でもだから、託してみた。

 彼も多分、私の思うあらまほしき恋愛像をほぼ共有していると思う。ギャップだとか駆け引きだとか、そういう表面上のものに私たちはどちらも振り回されたくないのだ。愛を与えるほど、自分も相手も幸せになるはず。そうだと信じて疑わない頑固さがいい。

 どうも私たちのじゃれ合いを好意的に見てくれる人は多いようで、とても嬉しい。人にどう思われてもいいとは言いつつ、できれば応援されていたい。欲張りなもので。一方で、「あんな調子で、別れたらどうなるんや…」と呆れている人もいるだろうと思うし、実際いるそう。それはそうだ。現在の幸せにかまけて未来の危険を顧みないとは。脳死すぎる。私はこれを正当化する論理をまだ知らない。ただ、今そうしたいからそうしている。まあ別れたらアカウントを消したりするのかね。知らんけど。

 あのように目立つ方法でじゃれ合うのに対して、退路を断って別れられないようにしている、という見方もできるかも知れない。私はそういうつもりはない。しばしば「ずっと~~」という言い回しを他のごまんといる恋人たちと同様私たちもするのだが、それは「言質とってやったぜ!これで逃げられないからな」(←余談ですが「言質」って「げんち」って読むの知ってました?「ことじち」だと思ってて恋人に馬鹿にされたのですが)という意味で言っているのではない。私は本当にずっと一緒にいたいと思っているし、いられると思っているから言っている。しかしこの関係は双方の不断の努力により維持されるべきなのであって、決して一緒にいるために一緒にいるべきだとは思わない(進次郎)。いつ何時も、常に「付き合い続ける」「付き合いをやめる」の二つの選択肢の中で、進んで前者を選び続け、気づいたら「ずっと」一緒にいたね、となりたい。E. ルナンの言う「日々の住民投票」ではないが。

 だからこそ、不満は伝えるようにしている。以前の私ができなかったことだ。嫌われるかもしれないという恐れで自分の気持ちを押しつぶすことは、自分のためでも相手のためでもないし、その程度の関係なら崩れてしまえばいい。幸い、相手は真摯に受け止めてくれて、私は心にもやもやをため込まずに済んでいる。逆でもそれができていると願っている。

 しかしこの精神のために、衝突が連発している時期もある。私の無神経さ、彼の繊細さがでこぼこになって摩擦を起こす。でもそれは、いつか摩耗されてなくなるべきでこぼこだと思う。個性がなくなるという意味でなく、意識しなくても相手を傷つけないほどに表面上の言動やなんかの粗が削れ、相手に合っていくはずだ。今そうした摩擦が起こるのはお互いに歩み寄ろうとしているから。そう信じて絶えず気持ちを言語化し、ぶつけ、受け入れてきた。現に最近は、そうした衝突の頻度が減ってきている。嬉しい。

 

 これもまたよく言うことだが、恋愛ないし相手に溺れてしまいたくはない。縛りたくもない。自分の生活や人間関係、そして相手のそれを尊重したい。たとえ別れたとしても、マイナスにならないような関係でありたい。それは別れる怖れがあるという意味ではなく、さっき言ったように、別れたくなくて付き合っているのではなく付き合いたいから付き合うことを選んでいるのだ、と信じたいからである。そして恋人がいて成績が悪い/友達がいないより恋人がいて成績も友達もある、の方が絶対的にプラスだから。

 前の項でも書いたような束縛の話に関しては、恋人とも考え方が一致していた。彼はよく、行動は縛れても心が冷めたら意味がない、だから行動も縛らない、と言う。そうなのだ。形としての交際を続けたいわけではなくて相手の心が自分を向いていてほしいだけだし、相手の行動を縛れば冷められることこそあれ、それによってより(本当の意味で)愛されることはない。私は行動をほとんど縛られていないし他の人たちとも接するが、そのせいで彼への愛が減ったりはしない、むしろ増えていくのだと実感した。

 そうそう、人を愛するって何、ってよく考えるがなかなか難しい。愛しているという時、私は相手に何をしているのか。愛されたいと言うとき、何を求めるのか。特別なプレゼント?表面的な快楽?恋人がいるというステータス?私なりに一つ考えてきたのは、「あなたが生きていてくれて、幸せでいてくれて嬉しい」という思い、である。これはフロムが『愛するということ』で紹介した母性愛のようなものだろう。無償の愛、無条件の愛。また、同著では愛について、こう語られている。

自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。……自分のなかに息づいているものを与えると言うことである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

 このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。……

 私はしばしば、面白いと思った恋人の言動をTwitterに載せている。いやまあ、くだらないと思われているかも知れないし、私もくだらないと思うことはあるけど、私はそういう恋人の培ってきたユーモアを表現されて、楽しく嬉しい気持ちになる。彼と付き合っているここ二ヶ月間漠然と楽しいなぁと感じているが、何が楽しいのかと考えてみると、多分何をしても楽しいのだ。LINEにしろ、電話にしろ、直接会って何かするにしろ、様々な仕方で彼という人が彼の持つ知識を、言葉を、感性を、思想を、表情を、気遣いを、私に表し与える。それが愛されているということならば、それと同時に私は愛し返してもいる。そういうところ、いやそれらを見せてくれる恋人自身を愛おしいと感じ、私のなかに息づいてるものをまた彼のなかにも与える。そういうものであるから、愛は限りのないものだ。愛すだけ、愛される。愛されるだけ、愛する。まただからこそ、縛られず他の人と接するほどに、私の内面の蓄えに新たな知見が加えられ、私が彼や他の人に与えられるものが増える。つまりより深く愛せるようになる。

 

 彼が彼のうちに蓄えているもの、そして与えてくれるものは何か。つまり、彼はどのように愛するのか。脇道に逸れるが、私は「好き」はデジタルからアナログへ徐々に移りゆくものだと思っている。例えば大雑把に「優しいところが好き」と言えたものが、接してさらにその人を知るうちに、それがどういうタイプの「優しさ」で、その優しさが彼の他のどのような特徴と結びついているのか、というようなより詳細なところまで解像度を上げて見えるようになり、結局どこが、と言葉に還元することのできない彼の連続的な総体を好きだと思うようになる。(かっこつけてデジタルとか解像度とか使ってしまったけど、情報は可(べし)です。お手柔らかに。)

 ここ二ヶ月付き合ってきた中で見つけたいいところはあまりにも多く、また上記のようにアナログなものへと変化してきているので、言語化して恣意的に一部を切り取ることは心苦しくもある。たとえば声が好きだ、と一口に言ってしまえば、そこから滲み出る優しさや温かさや知性、純粋さ、可愛さ、その他私が心地よいと感じている多くの、不可分の要素は捨象される。そのことを断った上で、彼の素敵さのほんの一部をご紹介したい。つまり惚気。

 彼と接した人なら多分わかるだろうが、彼は変人である。どう変人か。どうと言われると難しい。私と付き合うずっと前、文通を始めた頃、最初の手紙に「私は『原理主義者』なので・・・・・・」という文章があった。ほぼ初めて会話(文通)する相手に「私は原理主義者です」などという自己紹介をする者があるのか。「たさいさんはどうでしょうか。保守派ですか。それとも革新派ですか。」(※政治的な意味ではなく性格的な意味)なんて、最初の話題にするものか。彼を指して言う変人は悪い意味ではない。逆張りやひねくれなどではなく、ただ自分の信念をいつまでも曲げずにきたことからくる変さなのだ。原理主義だけに。その頑固さというか無垢さというかは、愛おしい(主観)。

 そして私は彼をとても尊敬している。彼は私が持っていたいと思うような資質を持っているのだ。それは、わかりやすい部分で言えば、教養や知性、それらを支えてきたのであろう好奇心や行動力である。彼の持つ知識や思考や言葉の海に投げ込まれると、私は自分の持つそれらのちっぽけさに気づいて縮こまる。そして自分の持つものに満足せず、何についても目を輝かせて知ろうとする好奇心や、好奇心の対象へすぐに手を伸ばす行動力にも敬服している。彼のそういう部分、持っている知識教養も、世界に対する姿勢も、私にとって新鮮で眩しい。彼はそれらを言葉や振る舞いで私に表現するし、さらに教えてもくれる。ここに、私が先の項で「恋愛のあらまほしき姿」としてあげたような要素が実現され、私は嬉しく思う。

 しかし本当に彼について尊敬しているのは、人との接し方、いわば愛し方である。私は優しいとよく言われるのだが(隙自語)、私の表面的で消極的な優しさ―例えばむやみに人を否定しないとかされたことを赦すとか―なんかとは格が違うなあと感じる。他に彼を知る人も指摘しているところだが、包容力とでも言うべきなのかも知れない。相手の悲しみ、苦しみ、痛みに徹底して寄り添い、相手を肯定する。私が彼にいわれのない怒りをぶつけたとしても、その怒りの裏にある私の悲しみを無言で抱き締め、撫で、受け入れるような、そういった包容力。そして配慮。車道側を歩いてくれたり、鞄を持ってくれたり、疲れていないか気にしてくれるだけではない。私の感情の機微に言葉や声色や表情の微妙な調子の違いで気づいて、悲しそうな時は気遣い、嬉しそうな時は一緒に喜んでくれる。自分がきちんと私のことを大事にできているのかいつも振り返り、私に確認してくれる。そうだから、私は彼といると、自分は愛されるべき、尊重されるべき人間なのだと無意識に感じる。私の放つ言葉も、見せる表情も、抱く感情も、彼はかわいい、愛おしいと言う。私は自分が少し好きになる。生きるのが嬉しくなる。

 彼にはこういう類いの優しさを持つ所以となっている繊細さ、ストイックさがあるのだということにも最近気づいた。そこはしばしば私のがさつさ、緩さと衝突してしばしば傷つけてしまう。対照的なのだ。私は彼の中に、自分がもっと、本当の意味で人に優しくなれる可能性を知り、それを体得したいと思う。私は人として成長するための指針を手にした。そして、彼のその繊細さやストイックさまで抱き締められるようになりたいと願う。

 あとはかわいい(脳死)。仕草とか表情とか言葉とか、いちいちかわいい。あーーーーかわいーーーーー。

 

おわりに

 このやけに長い作文、感想文、最後の方は壮大な惚気…をここまで読み進めてくれた方には感謝したい。え?ここで1万字以上も書くならレポートで書けよ?……後期は頑張ります。。。

 ここに書いたことはあくまで私の少ない経験から考え出した恋愛というものであって、みんなに当てはまるものではないかもしれない。しかしまあ、こんな考え方もあるのか、くらいに思ってくれたら嬉しい。私も小中学生の頃軽蔑していた恋バナというものを、この歳、じゅうk…二十才を超えてからしてみたくなったのだ。まあ恋バナとは一人でぶつくさ語るものではないだろうから、感想などもらえたら嬉しい限り(欲張り)。稚拙な文章に最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。

    再见ヾ( ̄▽ ̄)